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〈はじめに〉

会津育ちの自分が「会津藩」知らずしてはと「会津戊辰戦争」の史跡を追い掛け始めた。 当初、資料もなく戸惑いもあったが、再び「新人物往来」の「歴史読本」を購入。 「そんな中で”会津戊辰戦争〟写真集」を手にし、「会津藩戊辰戦争日誌」を購入し、この二つの資料を中心に史跡を追い求めることにした。
2022.05.01
会津戊辰戦争(参-二)

榎峠の戦い

榎峠は、当時は東に石坂山・金倉山の山々が連なり、西は断崖となって信濃川に落ち込んでいたという。その断崖の上を通るという難所で軍事上の要衝でもあったという。西軍は精兵の守備軍を配置せず、一度も戦いをした事のない尾張・上田藩を配備したことが裏目となった。
会津戊辰戦争(参-二)

会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結②

新潟方面に守備していた会津藩佐藤織之進は、五月十三日(7月3日)出雲崎方面の風雲急なるを知り、隊士二十五名を率いて出陣し、五月十四日の戦いで敗走した同盟軍が寺泊に居なくなったため、出陣、守備に当たったという。(やはり戦いは十四日)※従って上記の資料は十一日ではなく、この頃のものと思われる。
2022.07.02
会津戊辰戦争(参-二)

会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結①

出雲崎陣屋を本営とする諸生党市川三左衛門らが滞陣、会津藩が布陣していた。結義隊は陣屋に赴き、市川と面談後、物見として両隊長が十人程率いて先鋒陣営として布陣する諸生党・筧助太夫、朝比奈弥太郎、会津藩陣営を訪れ軍議を行った。
2022.06.20
会津戊辰戦争(弐-二)

江戸城無血開城、大久保利通都内史跡巡り

三月十四日(4月6日)の再会見で江戸総攻撃は中止と決まったが、徳川慶喜の処分は、大総督府参謀西郷でも一存では決められない。朝廷の三職会議(総裁・議定・参与)を開き、慶喜の処分の評議を行い、慶喜の水戸隠退を認める事に決した。
2022.05.01
会津戊辰戦争(弐-二)

山岡鉄舟と西郷隆盛会見、徳川慶喜謹慎の地宝台寺

山岡鉄舟は二月下旬、慶喜に拝謁し、大総督府西郷隆盛との直接の面談を依頼され、元薩摩藩士益満休之助を道案内として同行させ単身、駿河まで進軍していた。大総督府は東海道鎮撫総督府へ出立した。
2022.04.09
会津戊辰戦争(弐-二)

勝海舟

勝はさらに万が一の事も考え、イギリスに戦争回避の仲介、また江戸市中の市民救出のため、近海河川のあらゆる船を房総沿岸に新門辰五郎に依頼して待機させ、幕軍が敗れた場合は、江戸市中に放火し、進軍を阻止する作戦であったという。勿論、陸軍・海軍の総出陣態勢を整えていたのである。
2022.05.17
会津戊辰戦争(弐-二)

幕末の江戸情勢

ペリーの来航は、それまで潜在していた内政・外交の弱点が露呈し、現状のままでは太刀打ちできないものをはっきりと認識されだしたのである。一方、欧米列強国も自国だけでは経済の発展にかげりを感じ、ロシア以外の未開発国のアジア進出をめざしていたのである。
会津戊辰戦争(参-壱)

長岡藩家老河井継之助、小千谷会談決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

小千谷の慈眼寺で新政府軍軍監岩村精一郎らと会談したが、その非道な取り扱いを相談するためでもあった。川島は開戦することに反対したが、熟議の末、長岡藩は抗戦することになった。二人はこの地から同行して摂田屋の本陣に向かい諸隊長を前に開戦の決意を述べるに至った。
2022.05.05
会津戊辰戦争(参-壱)

片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺

五月三日(6月22日)正式に二十五藩による奥羽列藩同盟が仙台領白石に於いて成立した。越後では、前日長岡藩家老河井継之助と西軍・山道軍岩村精一郎の会談」が行われ、決裂していた。そんな情況の中、西軍が片見に侵攻し、会津藩との戦いが展開されたのである。
2022.05.05
会津戊辰戦争(参-壱)

会津藩長岡藩との同盟不成立、衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

長岡藩家老河井継之助との面談で長岡藩領内からの退去を求められた会津藩佐川官兵衛らは信濃川を挟んだ与板藩城下へ入り滞陣を続けている。一方、西軍山道軍は小千谷陣屋に入り滞陣、海道軍も柏崎へ入り海岸沿いを北上。武装中立を貫く長岡城周辺に次第に戦雲が垂れ込めてきていた。
2022.03.24
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