会津戊辰戦争(参-壱)信州鎮撫隊・梁田の戦い 戦いが次第に不利となり戦傷者が続出するに至り、総督古屋佐久左衛門は撤退と決し、まず負傷者を梁田の渡しから田沼へ向かわせ、激しい砲銃戦を渡良瀬川の堤防で展開しながら撤退した。西軍もそれ以上追撃する余力はなかった。 2021.12.26 2023.01.07会津戊辰戦争(参-壱)
会津戊辰戦争(参-壱)信州鎮撫隊、江戸-桶川宿-忍藩-羽生宿を経て梁田へ 三月七日に隊の再編成を成した古屋佐久左衛門は何日たっても侵軍しない西軍に、ついに行程を変更し信州に向かう事に決し羽生から出陣する。道は本庄に滞陣する西軍の本隊を避け、迂回路を進んだ。 八百五十余名~八百七十余名であった。 2021.12.18 2022.03.30会津戊辰戦争(参-壱)
会津戊辰戦争(参-壱)旧幕陸軍歩兵隊の江戸脱走と古屋佐久左衛門らによるその鎮撫 「古屋佐久左衛門」は、脱走した歩兵隊の乱暴狼藉の報を幾度なく耳にすると強盗集団と化した歩兵隊を収拾しようと考え、勝海舟を訪れ許可を得、親友の「今井信郎」「内田庄司」「永井蠖伸斎」「天野新太郎」らと共に歩兵隊の後を追った。 2021.12.12 2022.05.07会津戊辰戦争(参-壱)
会津戊辰戦争(弐-三)桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向 磐城方面で同盟軍と共に西軍と戦いを展開するが、泉・湯長谷藩が落城し、平藩が七月十三日(8月3日)ついに落城し七月二十三日に会津若松に入ったのである。八月五日(9月20日)請西藩主林忠崇ら一行は会津に在った仙台藩士国分平蔵の案内で若松を出立する。 2021.12.10 2022.05.11会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡 西軍は軍監三好軍太郎(長州藩)に一隊を率いさせ、大雨で水嵩が増している信濃川を渡河し「中島」に上陸、長岡城下へ奇襲攻撃をかけ「朝日山」方面に主力を出陣させていた長岡藩筆頭家老河井継之助はがドリング砲を持って馳けつけ反撃するが、ついに「落城」した 2021.12.05 2023.01.01会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)旧幕典医の松本良順と旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ 旧幕典医の松本良順が若松城下に入ったのは江戸城明け渡しの前後の頃であったと思われる。会津に入ってからは「日新館」に滞在し、医学の指導をするかたわら、負傷者が送られてくるとその治療に当たった。新選組土方歳三も足に負傷し治療を受けている。 2021.12.04 2021.12.05会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)会津若松で奮闘した土方歳三 閏四月五日(5月26日)白河方面への出陣が命じられるまでの間、土方歳三は天寧寺住職と共に松平容保に拝謁し、近藤勇の墓建立を願い出て戒名を書いてもらったという。また、五日の前日、隊士一同を率い、容保に拝謁し歓迎の宴を受けたとも伝わる。 2021.11.27 2022.12.08会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ 会津藩士が帰国を開始した三月三日(3月26日)、小笠原長行は江戸諸藩士十数人を率いて江戸を脱し、元領地であった棚倉へ向かった。奥羽諸藩の「会津救解」の動きを知ったのか、小笠原は棚倉を出て若松へ向かった。 2021.11.23 2021.11.27会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)会津藩四藩境への防備体制強化 三月十二日(4月4日)「藩四境防備体制」を改めた。(1)津川(越後口)木村隊、諏訪隊(2)浜崎( )堀隊、蜷川隊(3)三代(白河口方面)横山隊、鈴木隊(4)田島(日光口方面)原隊、有賀隊、さらに「軍事方」は周辺各地に「鎮撫隊」の派遣を通告した。 2021.11.14 2021.11.23会津戊辰戦争(弐-三)
会津戊辰戦争(弐-三)会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル 会津藩がスネル兄(ヘンリイ)弟(エドワード)を知ったのは、近代的武器購入に際して家老梶原平馬が横浜に赴く時、長岡藩家老河井継之助を通じて知った。梶原平馬はスネル(ヘンリイ)に会津藩の軍事顧問を依頼、承諾を得る。名を「平松武兵衛(武平)」と改め会津城下に居住する。 2021.11.13 2022.05.11会津戊辰戦争(弐-三)