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2021-05

会津戊辰戦争(壱-一)

〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉

会津藩士は蝦夷地の警備に当たったのは九年間であった。慶応四年の「戊辰戦争」の勃発によって蝦夷地から撤退となっていく。当時蝦夷地は「米」が殆んど獲れず、漁業だけが唯一の産業であった。現在、会津に残る「ニシン」や「ボウタラ」の料理がここから発源されたのである
2023.01.29
会津戊辰戦争(壱-一)

〈ペリー来航関連資料〉

ペリー来航関連資料
2021.08.07
会津戊辰戦争(壱-一)

〈「日米和親条約」締結される〉

〈浦賀奉行所跡〉 〈「日米和親条約」締結される〉 ペリー提督は翌七年一月十六日(2月13日)、再び来航し「開国」の回答を迫ったのである。老中阿部正弘は、ついに「受諾」の決意を市し、三月三日(3月31日)「横浜」で「日...
2021.08.07
会津戊辰戦争(壱-一)

〈浦賀奉行所跡〉

ペリー提督一行の上陸を許可させ、江戸詰浦賀奉行・井戸石見守、浦賀奉行の戸田伊豆守らが迎え「接見」した。ペリーは制服着用し、武装水兵三百余人を従え、各艦から十二発の空砲を撃たせて「応接館」に繰り込んだという。ペリーは「大統領の親書二通」と、自らの「将軍宛の二通」の書簡を手渡し、式は終わった。
2023.01.01
会津戊辰戦争(壱-一)

〈北米合衆国水士拍理上陸記念碑〉

江戸幕府は約二百年にわたり、外国タオの通商交通を禁止する鎖国政策をとっていたが、その日本に対して突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(嘉永六年六月三日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨井沖に現れ、同艦隊は六日後に久里浜に上陸した。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
2023.01.01
会津戊辰戦争(壱-一)

〈「ペリー艦隊」浦賀に現れる〉

ペリー提督は砲門を揃え、戦争を構えての威嚇する交渉であった。阿部老中は三奉行、海防掛らと協議するが結論が出ず、水戸藩主徳川斉昭にも意見を求めたが、斉昭も圧倒的な武力の差を目前にして、具体的な答えはできなかった。幕府は「開国」の回答は一年延ばして、大統領の親書は受理したのである。
2023.01.01
会津戊辰戦争(壱-一)

房総(富津)、品川沿岸警備

弘化四年(1847年)二月、幕府は会津藩には「忍藩」と共に「房総沿岸」の警備を一万両を支給し命じてきた。会津藩は「富津」と「竹岡」の警備のために陣屋を設けた。幕府は「品川沖」に台場を築造を開始、完成すると「第二台場」の警備を会津藩に命じてきたのである。
2022.08.18
会津戊辰戦争(壱-一)

〈松平容保九代会津藩主となる〉(愛宕神社・容保胸像)

容保は嘉永三年(1850)2月、16歳で元服し、翌年6月初めて会津の地を踏んだ。しかし、翌年正月早々、容敬が病臥の報せを受け、急ぎ江戸に戻ったが、2月10日、容敬は不帰の人となった。これによって容保は同閏2月25日、九代藩主に就いた。
2021.11.07
会津戊辰戦争(壱-一)

〈「坂下門外の変」起こる〉

次第に「尊王攘夷」の声が起こり始め、「安政の大獄」で力でそれらを押さえつけた井伊大老殺害となり、また安藤信正は「公武合体」をめざし、皇妹「和宮」の降嫁を実現させた。その事が「尊王攘夷派・志士」らの憤激をさそい、「文久二年(1862年)一月十五日(2月13日)坂下門外に於いて安藤信正が襲撃される事変が起ったのである。
2021.11.13
会津戊辰戦争(壱-一)

〈皇女「和宮」の降嫁〉

安藤信正が行った幕政安定のために行った施策の中で、最も大きな政治対策は「公武合体(一和)」をめざした事である。皇妹(こうまい=天皇の妹)「和宮」を「御台所」(将軍の正室)に迎える事を決した事である。「和宮」の「降嫁」は「政略結婚」である事が誰れの目にも明らかであり、「尊攘派志士」を憤激させる事になった。
2022.12.22
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