2021-06

京都守護職時代

〈足利事件〉〈姉小路事件〉

足利事件と姉小路事件 守護職就任から二か月も経たない文久三年(1863年)二月二十三日この足利事件が起きた。「等持院」に飾られていた足利将軍三代の木造の人形を切って位牌と共に、三条大橋畔に晒した。五月二十日(午後七時~九時の間)姉小路公知は朝廷を退いて自宅へ帰る途中朔平門付近(猿ヶ辻付近)で襲われた。
2023.01.22
京都守護職時代

〈会津藩公用人、活躍す〉

入洛前に先鋒隊の公用方として藩家老田中土佐、外交方の公用人に野村左兵衛、山室金吾、外島機兵衛、柴太一郎、大庭恭平(浪士として潜入させる)、柿沢勇記(鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻った時、旧幕軍伝習隊に入る)、宗像直太朗らに京都に出し、宿舎の設営、食料の調達を行わせた。公用人は京都、大阪の政局と情報収集に奔走する
2022.12.20
京都守護職時代

〈黒谷・金戒光明寺=会津藩本陣跡〉

将軍上洛が決まった。本来の将軍警護として残留した近藤勇らは三月十日この会津本陣へ出向いて「趣意書」を提出。三月十五日近藤勇らは「会津藩預り浪士組」として認められた。この浪士組が「新撰組」へとなっていく。
2022.05.02
京都守護職時代

〈松平容保・会津藩・「京洛」に入る〉

「大阪城代」「京都所司代」「京都・大阪・伏見・奈良の各奉行所」を統括、まず「公武合体」の実を上げその「畿内」の治安に務め、非常時には「軍事指揮権」を有する権限を持つ「京都守護職」の入洛に市民らは約4キロに及ぶその行列に期待と不安を織り交ぜ道々に溢れていたという。
2023.01.12
京都守護職時代

〈会津藩主松平容保「京都守護職」となる〉

幕府は「外様」に京都を牛耳られてはと、親藩の越前か会津藩しかその大任を果せそうな藩は見当たらなかった。 しかし、「後見職」には一橋家の徳川慶喜(この当時はまだ一橋)、政事総裁職に越前藩主松平春嶽が就任となり、残る守護職だけとなり、最近頭角を表してきている会津藩主松平容保にその「白矢」をたてたのである。
2022.04.24
京都守護職時代

〈松平容保「幕閣」に重きをなす〉

ついに水戸藩士、薩摩脱藩士による「井伊大老」襲撃、「桜田門外の変」が起きた。これら一連の水戸藩の動きに、幕閣は「水戸藩問罪」追求とするが、会津藩主松平容保は「武力」に訴える事に反対し、家臣(藩士)外島義直、秋月悌二朗を使者として出立させた。
2021.12.04
会津戊辰戦争(壱-一)

〈「幕政改革」なる〉

朝廷は改革の中で「攘夷実行」の「勅者」を守ることを表明したことを知り、直ちに「三条実美」を「勅使」として江戸に出立させ、実行の督促をした。この時、前回の「勅使」の待遇等々に不備があった事を知った。会津藩主松平容保は幕府にその「改善」を上呈し、実行させている。
2022.12.22
会津戊辰戦争(壱-一)

〈生麦事件起きる〉

生麦事件犠牲者の生前の姿
2023.01.15
会津戊辰戦争(壱-一)

〈薩摩藩の「寺田屋騒動」〉

精忠組は藩主上洛を知り伏見に入った。藩主は「公武合体」の推進のための「上洛」と知り、上洛し討幕の狼火を上げようと決意し、京へ向かんとする所に、藩主の意を受けた藩士らが訪れ「決起」を「軽挙な暴発は止めよ」と説得するも成らず「藩命」と言っても説き伏せる事がかなわず、ついに藩士同士の「斬り合い」となった。
2021.10.02
会津戊辰戦争(壱-一)

〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉〈江戸「本行寺」〉

松平容保は、「開国」には賛成の立場であった。但し、幕府の威権は維持する考えであった。「戊午の密勅」で紛糾する幕閣の中にあって、徳川御三家の水戸藩の問罪を推し進める事は、国乱の元になると、その中止を建言し、一躍「溜間詰」の諸大名の注目の的となった。
2022.03.30
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