2021-11

会津戊辰戦争(弐-三)

会津若松で奮闘した土方歳三

閏四月五日(5月26日)白河方面への出陣が命じられるまでの間、土方歳三は天寧寺住職と共に松平容保に拝謁し、近藤勇の墓建立を願い出て戒名を書いてもらったという。また、五日の前日、隊士一同を率い、容保に拝謁し歓迎の宴を受けたとも伝わる。
2022.12.08
会津戊辰戦争(弐-三)

旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

会津藩士が帰国を開始した三月三日(3月26日)、小笠原長行は江戸諸藩士十数人を率いて江戸を脱し、元領地であった棚倉へ向かった。奥羽諸藩の「会津救解」の動きを知ったのか、小笠原は棚倉を出て若松へ向かった。
2021.11.27
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩四藩境への防備体制強化

三月十二日(4月4日)「藩四境防備体制」を改めた。(1)津川(越後口)木村隊、諏訪隊(2)浜崎(  )堀隊、蜷川隊(3)三代(白河口方面)横山隊、鈴木隊(4)田島(日光口方面)原隊、有賀隊、さらに「軍事方」は周辺各地に「鎮撫隊」の派遣を通告した。
2021.11.23
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル

会津藩がスネル兄(ヘンリイ)弟(エドワード)を知ったのは、近代的武器購入に際して家老梶原平馬が横浜に赴く時、長岡藩家老河井継之助を通じて知った。梶原平馬はスネル(ヘンリイ)に会津藩の軍事顧問を依頼、承諾を得る。名を「平松武兵衛(武平)」と改め会津城下に居住する。
2022.05.11
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩と新発田藩の関係

前藩主溝口直溥が会津城下を通過するため入ってきたのである。鳥羽伏見の戦いにも出兵させず、また薩摩・長州藩士を潜伏させているとの風聞、京都に於ける新発田藩の行動に対して、その疑念、不満が積もり積もっていたのか、会津藩家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門は、宿を訪ね二日間に亘って激論をたたかわした。
2023.01.03
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

松平容保は「恭順謹慎」を朝廷に届け出ていたが、朝廷を牛耳る薩摩・長州藩の参議らは奥州諸藩に「会津追討」の命を発し「北陸道」「東山通」「東海道」「奥羽」への鎮撫隊を出動させていた。西軍の侵攻が強化される中では、「武備」もやむを得なかったといえる。
2023.01.01
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