会津戊辰戦争(参-二)司馬遼太郎「峠」の文学碑 武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。 2022.07.31 2022.08.12会津戊辰戦争(参-二)
会津戊辰戦争(参-二)北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2 同盟軍は西軍が作戦変更の軍議が行われている事など露程も知らず、榎峠、朝日山の砲撃で応戦していた。しかし、十六日に長岡城に近い草生津の砲台が砲撃され三仏生より更に先の草生津まで西軍が信濃川沿いに北上している事を知らされたのである。 2022.07.18 2022.11.03会津戊辰戦争(参-二)
会津戊辰戦争(参-二)北越戊辰戦争・朝日山攻防戦1 白虎隊士と伝わる新国英之助だが、士中組ではないようで、父と共に参加したとすれば、年齢的に白虎隊であるためそう思われたか、それとも隊から離れ父と共にその隊の付属となって出陣したのではないだろうか。戦死の日も、五月十二日か十三日か定かではないが、恐らく十三日の長州・奇兵隊の奇襲時にこの地で守備陣地に守っていたと推測する。 2022.07.11 2022.07.18会津戊辰戦争(参-二)
会津戊辰戦争(参-二)榎峠の戦い 榎峠は、当時は東に石坂山・金倉山の山々が連なり、西は断崖となって信濃川に落ち込んでいたという。その断崖の上を通るという難所で軍事上の要衝でもあったという。西軍は精兵の守備軍を配置せず、一度も戦いをした事のない尾張・上田藩を配備したことが裏目となった。 2022.07.02 2023.03.12会津戊辰戦争(参-二)