会津藩士江戸へ到着、松平容保胸中を語る
〈会津藩負傷者、江戸に着く〉
一月八日(2月1日)「鳥羽伏見の戦い」で負傷した会津藩士は新選組と共に大阪・天保山沖を出航し、一月十五日(2月8日)江戸品川沖に入港し、上陸後「三田藩邸」に夜になって入る。 航行日数がかかったのは途中寄港しながらの出航のためと思われる。 この時「富士山丸」も共に入港していたはずである。
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一月九日(2月2日)会津藩大砲隊は旧幕軍と共に紀州街道を下り大阪をあとにしたが、途中、由良港や所々の港に寄港し、数日間滞在したりして一月二十四日(2月17日)品川に入港し「三田藩邸」と増上寺・徳水院で分宿している。 その時は「的矢港」から長崎丸に乗船して江戸に向かったのである。
〈増上寺・大門〉
会津藩は「江戸切絵図」によれば「上屋敷」を江戸城内・和田倉門内に、「中屋敷」を芝、愛宕下の「浜御殿(現・浜離宮)」の前に(増上寺に近い)「下屋敷」を芝・金杦橋と三之橋の二カ所が記載されている。
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大阪から引き揚げてきた負傷者を収容したのは「下屋敷」と思われ、また「増上寺」の崇徳院に分宿させ病院とした。
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「増上寺」前から会津藩中屋敷方面を望む。
「大阪城」を枕に西軍との決戦をと勢いよく発した徳川慶喜の姿なく、また藩主松平容保の姿も消え、消沈して江戸に帰府した会津藩士は、その怒りを何処へ向けたらいいのかと、とまどい負傷者は何のための戦いであったのかと深いやりきれない心情であったろう。
〈増上寺〉
〈増上寺・寺務所・事務課長の話〉
「戊辰戦争当時」当時は徳川幕府の由緒ある寺のため、西軍が江戸城に入る前「大総督府」参謀西郷らが駐屯、滞陣しました。そのため徳川家に関する書籍等々の処分を余儀なくされ、また「世界大戦」の空襲によっても貴重な資料は殆んど焼失した。
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会津藩が「崇徳院」を治療のため「病院」としたことも伝え聞いてはいますが、裏付ける資料は何も残されていません。
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西軍が「明治政府」となっても、増上寺は徳川家由緒の寺として、何かにつけて辛い思いをさせられたとも伝わっています。
〈増上寺・表門〉
「鳥羽伏見の戦い」で負傷した会津藩士は旧幕艦「富士山丸」に乗ったが「正角丸」にも多数の負傷者が収容され、江戸へ向かい(一月八日=2月1日)、一月十五日(2月8日)払暁、品川沖に入港し、その夜「三田藩邸」に移送された。
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増上寺、徳水院に収容されたという。軽症者らではあったと思われる。恐らく上陸から少し距離があるため、軽症者であると思われる。
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「表門」から増上寺の「山門」までの間に、当時は左右に多くの塔頭院があった。
〈安養院〉
奥のビル辺りが「徳水院」があった辺りである。散策したが、寺跡を残す面影は何もなかった。
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安養院と向かい合う寺跡。
〈松平容保、三田藩邸の負傷者を見舞う〉
一月十六日、松平容保は江戸城へ登城する。この頃はすでに心の整理も付いたと思われるが、この日の登城は何であったのか、慶喜の心は何を語ったのか知る由もないが「戦線離脱」の呵責に襲われていたのだろうか。
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一月十七日(2月10日)容保は三田藩邸の負傷者を見舞った。戦場に残してきた藩士への思いをこの見舞いにも現れたのだろう。一人一人に声を掛け、その労をねぎらったという。また屋敷の長屋に住む家族、親類にも、その労をねぎらった。「鳥羽伏見の戦い」で特に勇敢に戦い、戦死・負傷者を多く出したのは会津藩であり、新選組であったという。
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容保の見舞いを案内した小森 一貫斎に鳥羽伏見の戦況も聞き、容保もその情況を知り、共に感涙したという。
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一方、国元の松平喜徳(慶喜の実弟で松平容保の養子となっている)は望月弁次郎ほか五、六人の藩士を江戸へ派遣し、鳥羽伏見の戦いを含め、その前後の情況報告を詳細に受けた。いつ帰国したのか分からないが、喜徳は二月に入ると容保の弁解の活動を行うことになる。
〈増上寺境内全図〉
「安養院」この裏手に会津藩士の負傷者が治療を受けた増上寺塔頭「徳水院」が在った所。
増上寺より購入
〈松平容保、藩士に胸中を語る〉
一月十六日(2月9日)松平容保は登城した。城内で何を述べ、また慶喜らは何を語ったか知る由もないが、容保はこの日城中に泊まっている。この日、容保は堅く胸中に決するものがあったのかも知れない。翌十七日藩邸に戻ると(暁というから午前四時頃か)家老、一瀬要人、若年寄西郷勇左衛門を召し出し、自らの胸中を語り、藩士一同に伝えさせた。
「朝廷」と言われる所、とても許し難く「逆賊」の汚名は何としても晴らさねばならぬ。と堅い決意を述べたという。
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この日、その後三田藩邸の負傷者を見舞った。
十七日、容保は胸中を家臣に語ったが、「小姓」の浅羽忠之助に十五日頃、大阪城を脱け出す時の心中を語っている。六日の大阪城内の評議に於いて慶喜将軍は全軍に対して「大阪城を枕に討死するとも最後まで戦う」と宣言したので、皆その心構えでいたのだが「脱出するから従え」と言われ「戦うと思っている兵士を置き去りにはできない」と申し上げた。しかし、将軍は本当は宣言したようには考えていないように思えて憂慮していたので、そのことを神保修理だけには知らせておいた。案の定、慶喜公より「お供せよ」との厳命が夜遅くあった。公に従えば残された家臣に義を欠く。家臣に義を立てれば、公に対して義を失う。二つをとることはできなかった–—と辛く苦しかった胸中を語ったという。
〈江戸城〉
1970年10月20日撮影(左)1971年5月12日撮影(右)

〈崇徳院〉
1971年6月1日撮影
芝三田二本榎高輪辺図
〈増上寺〉
2005年5月11日撮影
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