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会津藩の越後方面での布陣と偽名西郷蔵之進の借用金事件

会津藩越後方面布陣会津戊辰戦争(参-壱)

飯山藩の裏切り、衝鋒隊敗北、酒屋陣屋まで撤退

 

会津藩、越後方面での布陣と

偽名西郷蔵之進の借用金事件

〈会津藩の動向〉

衝鋒隊が飯山、高田、川浦で戦いを展開している頃、会津藩は藩四境防備を強化するため、更なる態勢を図るため出陣を続けていた。一方、会津救解の接渉も進められていたが、奥羽鎮撫総督参謀世良修蔵の会津憎しの感情的横暴な仙台、米沢藩の出兵を執拗に発令し、仙台藩は表面上出兵の形をとっていた。白河口防備に家老西郷頼母が総督となって四月二十日前後にも出陣している。しかし、会津救解の面談も進展し、大詰めの段階を迎えつつあった。

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旧幕軍の江戸脱出後、下野地方方面での西軍との戦いもすでに展開されていた。

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四月十九日(5月10日)越後・水原陣屋に滞陣する会津藩は出湯村の河原で大規模な軍事演習を行い、多くの村人が見物に集まったという。

会津救解の動きが強まってきている微妙な時期であったが、武備恭順である。幾度となく提出された松平容保の謝罪。歎願が無視され続けた結果、そうならざるを得なかったのである。

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この頃水戸藩の諸生党は大政奉還後、藩政を牛耳っていたが鳥羽伏見の戦いが西軍の勝利となると、京都に滞在していた水戸藩士は朝廷から諸生党の追討を案に命じられ、それらを察知した諸生党は水戸を脱し会津をめざし、三月二十一日会津藩境勢至堂に至り、会津入国の面談、しかし、この頃は会津救解の機運が奥羽諸藩に起きている時期であったため会津若松城下滞陣は許可できる状態ではなかったのである。(この辺の情況は「幕末水戸天狗党」を参照)

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三月二十二~二十四日にかけて、会津重臣と面談し城下の通行を認め諸生党は越後をめざし、三月下旬~四月上旬にかけて総勢六百~七百人の諸生党は越後・水原陣屋に着陣している。やがて奥羽列藩同盟軍と共に西軍と戦いを展開していく事になっていく。それまで表立っての動向は会津藩の資料には名が出てこないのである。(拙著「幕末・水戸天狗党」参照)

会津藩動向

四月上旬頃の会津藩の布陣は、移動・転陣が行われていて定まっていないがおおよそ図のようであった。(□印)
◎印は陣屋がある所

一月二十九日に旧幕府より新たに預かり領地と蒲原・魚沼両郡へは早い時期に派遣していたと考えられる。酒屋・津川は元々代官が滞宿している。

会津藩越後方面布陣

三月下旬に藩境防備体制が強化され、出陣諸隊は決めたが、すべての諸隊が越後に出陣は終わってはいなかったが、ほぼ出陣は進行していた。記載漏れはあると思うが、一応まとめてみる。

(1)大銃打組(木村忠衛門隊長) 津川へ(二月十二日)

(2)酒屋陣屋 イ 井深宅右衛門 ロ 土屋総蔵(三月十八日、新発田藩城下へ)

(3)水原陣屋(萱野右兵衛)三月十四日着陣

(4)津川陣屋 青龍三番士中組(木村慎吾隊長)三月二十日すぎ

(5)結義隊(渡部英次郎隊長)五泉三月三十二日

この他に朱雀四番足軽隊(横山伝蔵隊長)、朱雀一番足軽隊(三宅小左衛門)、原隼太の隊、新遊撃隊(佐藤織之進)らがある。さらに西郷源太郎、秋月悌次郎も入越している。

〈偽名の「借用金」事件起きる〉

四月に入ると会津救解の面談が活発となり、仙台・米沢藩との交渉が頻繁になり、藩境防備に出陣している諸隊に、その旨伝えられ、西軍との接触、他藩士の来援なども断る方針のため、越後方面の諸隊も動きが差し控えられていたようである。

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それでも四月二十三日(5月15日)村松藩の坪井静作と面談したり、新潟へ出張したりの動きはあったようである。

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そんな中、四月二十六日(5月18日)一つの事件が起きた。会津藩家老西郷を語り一千両の借用申し入れる事件であった。

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下記資料だけでは何藩で何者かは分からないが、その人物村松藩領内の庭月村の村役人・猪三次方へ参り、会津藩家老西郷蔵之進と名乗り、一千両の借用を申し入れるが、蔵之進なる家老が存在しない事を知っていたのか、猪三次は村松藩に届け出たものか、召し捕りとなった。村松藩は水原陣屋へ通報した。翌二十七日秋月悌次郎、たまたま酒屋陣屋から出張に来ていた柴守三の二人は捕らえられている村松藩・大和屋の長五郎宅に赴き、首実験すれば全く知らぬ人物であったため、偽名である事を伝え、その人物の処分は「如何様にも」と村松役人に面談し事は納まった。

 

西郷蔵乃進借用金事件

西軍北陸道総督府も越後侵出

戊辰の年、四月が二回あり閏四月となった。

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閏四月一日(5月22日)会津藩士北原雅長(半介)は、村松城下に入り、重臣稲毛源之右衛門らを訪ね面談する。会津救解も大詰めを迎え、仙台・米沢・会津三藩の家老が仙台藩領七ヶ宿村にて、会津藩の具体的謝罪・謹慎の内容が確認される情況となり、それらの語らいのために会津若松を出立し、重臣の北原が訪ねたものと思われる。奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵は、この頃総督府を白石に移し、仙台藩に強引に朝命として出兵させ会津藩境まで出陣させ小戦まで行わせようとしていた時期であった。(会津戊辰戦争(八)参照)奥羽列藩同盟への動きが芽生えてきた時でもある。

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閏四月に入ると、西軍北陸道総督府も越後侵出が定まり、また越後に戦雲がたちこもる情況が起きてくる。北陸道総督府の先鋒的な一隊が衝鋒隊と戦ったのが四月二十五日で、その後先鋒陣の西軍が高田城付近の新井村に侵入したのが閏四月七日(5月28日)、約十二日間滞陣し、高田藩を恭順させている。実際は四月二十五日以前に使者が入り、西軍には内応していながら衝鋒隊を迎え入れていた節がある。

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そんな情勢・動勢が越後に出陣している会津藩にとって風雲急を告げる情況となってくるのである。

越後方面動向

〈会津藩の諸隊、転陣が活発になる〉

閏四月二十四日(6月14日)会津藩が越後に於いて西軍と戦いとなるまでの会津藩の動きを少しまとめておく。

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閏四月二日(5月23日)白河口方面の防備陣の会津藩と奥羽総督府の強要による出兵に応じた仙台藩と藩境での交戦が起こった。また江戸を脱した旧幕軍が日光口から会津西街道を北上し会津領内に進出し(会津来援)、また閏四月四日(5月25日)には会津救解の奥羽諸藩の協議開催の呼びかけが仙台・米沢藩の面談の書状が諸藩に送付された。

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そんな情勢の中、越後方面の会津藩陣営に動きが出てきていた。閏四月九日(5月30日)酒屋陣屋に滞陣していた砲兵隊は大雨の中、栃尾の赤谷へ転陣、その後三条へ転陣する。

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五泉、津川から出陣したと思われる諸隊も新津、村松に滞陣していたが、閏四月十一日(6月1日)それぞれ出陣し三条へ転陣、多くの諸隊が連日終結する。この中の一隊先手組(四百五、六十人)の一隊(高沢加一郎隊長)は長岡方面へ出陣したのが十四日である。また一隊(百三十人)は寺泊へ出陣し宿陣している。一方、五泉へ向かう合田百太郎隊の六十二人などもあった。

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このように諸隊の動向が激しさを増していくのだが、できるだけ同方面の動向をまとめて記載していくため、日付が前後するが了承して欲しい。

活発な転陣

〈会津若松から出陣相次ぐ〉

一方、会津若松城では会津救解のための奥羽諸藩連盟「嘆願書」が西軍総督府参謀世良修蔵に却下され、再び会津追討の命令に諸藩は逆にそのために出陣した藩の出兵の解除を求め、列藩同盟成立へ向けて大きく進み始めた事を受け、西軍との一戦に決し、藩境防備陣の出陣を決定していくのである。

 

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まず、一瀬要人を越後口の総督に定め出陣する。閏四月二十日(6月10日)白河城を攻略した日、一瀬要人は水原陣屋を出陣し、桑名藩領柏崎から移動し加茂に入っていた桑名藩主松平定敬に拝謁している。とすれば白河口総督となって若松城下を四月二十日(5月12日)出陣した西郷頼母と同様、この時期に出陣し水原陣屋に閏四月に入って津川より転陣していたと考えられる。

 

会津藩越後方面布陣図

同日、閏四月十二日頃から三条に集結していた浮撃隊、親遊撃隊は加茂新田に二十日に転陣し、二十二日出陣の命を受けている。しかし、実際に出陣したのは二十五日に小須戸に進み、木村重右衛門らと共に宿陣する。新遊撃隊(坂本弥上隊長)二百人、同隊の酒屋陣屋に出陣していた六十人も合流している。

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一方、加茂に宿陣していた一瀬要人は二十一日長岡に向かい宿泊(十六名という。重臣を率いていたのかもしれない)二十二日小千谷に着陣している。

佐川官兵衛の出陣と三国峠の戦い

会津から越後へ出陣

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