〈会津藩、江戸を去る〉

新選組会津戊辰戦争(弐-一)

松平容保、会津へ

江戸残留の会津藩士動向

〈会津藩、江戸を去る〉

「鳥羽伏見の戦い」後、大阪城を脱け天保山沖から幕府軍艦「開陽丸」の船中にいた徳川慶喜、松平容保らに西軍は早々と官位剥奪・領地の没収の命を出し、矢継ぎ早に奥州の諸藩に会津藩追討の命を執拗に出していた。 二月十日、江戸登城禁止が旧幕府より命じられ、江戸退去を求められた松平容保は二月十六日(3月9日)会津へ向けて出立した。 藩士らは三月まで最新式の軍事教練を受けることになったが、藩士の家族、負傷者らの帰国が開始されることになる。

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一方、江戸残留者もあった。 慶喜の謹慎をおもんばかって、また会津藩への影響を思い、暗黙の「脱藩」の形をとった。 更に幕府の陸軍に入る者もあった。

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容保が帰藩後は、和田倉門上屋敷で誰が指揮をとっていたのか定かではないが、表面上の会津藩江戸撤退の最後は家老西郷頼母である所から、京・大阪から戻った重臣もいたのではないかと思われ彼らが進行役を務めたものと推察する。

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この後、「市川・船橋の戦い」「上野の戦い」が起こるが、会津藩士の姿が必ず見られるのである。 かなりの会津藩士が江戸に潜伏していたものと思われる。

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松平容保が二月十六日(3月9日)江戸を出立し帰国の途につくのだが、江戸に残留した者、また会津藩士らが帰国後の江戸の於ける会津藩の動向を追ってみる。

会津藩

〈会津藩家老一同「朝廷」への「嘆願書」を託す〉

〈婦女子の帰国も始まる〉

江戸を去る者は会津藩だけではない。江戸在中の各諸藩も留守役らは残ったものの殆ど帰藩している。それらの武家屋敷で働いていた者、商い等々も仕事がなくなり、江戸市民にも混然とした世情に不安はあったものと思われる。西軍が江戸に入ってくるのは、まだまだ先の事であった。

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慶喜の謹慎によって旗本らもどう対処すべきか迷っていたものと思われる。それぞれの「知行地」へ向かった者もあろう。しかし、勝海舟はまず西軍との掛け合いは「徳川家の存続」であり、主戦論者の江戸脱出が先であった。

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会津藩士の帰国は他藩の帰国もあり、その宿場、荷物の運搬は大変なものあったと想像がつく。若松城下に入るのはかなり遅れたという。その帰国に関する一切の監督(指揮)は「一柳幾馬」が行った。

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一方、藩重臣は容保の帰国に際し、二月十八日(3月11日)京に滞留する福井藩主松平春嶽(容保の実兄=幕府の政事総裁であったが、鳥羽伏見の戦い以後も京洛に滞在し、やがて西軍に恭順している)に「容保」の朝廷への「嘆願書」と一緒に重臣一同の名をもって、福井藩士草尾一馬に託した。

嘆願書

〈会津藩、帰国へ〉〈残留組「フランス式軍事調練」を受ける〉

二月二十日(3月13日)増上寺徳水院と三田藩邸に滞留していた砲兵隊は「和田倉門内」の上屋敷に全員移転した。そして翌二十一日「小川町」の旧幕陸軍所に於いて「フランス式軍事調練」をフランス軍人から受け始めた。三月から帰国するが、それまで連日調練を受けた。

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二月二十七日(3月20日)会津藩士公用方の神尾鉄之丞、秋月悌二朗が、幕臣(元幕閣)の小栗忠順(上野守)を訪ねた。小栗は当時海外にも派遣され、その才能は秀れ軍事・勘定にも詳しく鋳造の技術も習得しており、金貨、弾薬等々の製造を学びとったものと思われる。会津藩が江戸を引き払って帰国する時、江戸の鍛冶職人を連れていってることからも「鋳造」の手ほどき文献等々を小栗から貰い受けたと判断したい。

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二月二十八日(3月21日)会津藩は「鳥羽伏見の戦い」の戦死者の「跡目相続」の手続きを始めると共に、負傷者への「慰労金」の支払いを行った。藩士の帰国に伴う資金も考えての事と思われる。この日、藩命により残留する者以外の藩士の帰国が(三月一日(3月24日)負傷者)三日より一般藩士も含めて行われているからである。

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二月下旬(二十日過ぎ)には、国元の家老西郷頼母もすでに和田倉門内の上屋敷に入り、屋敷明け渡しへの陣頭指揮を執っていたとものと思われる。

会津藩

〈会津藩「新選組」へ二千両与える〉

徳川慶喜は「恭順」に決したのち、主戦論者の「登城禁止」を出し、自らも二月十二日(3月5日)江戸城より「上野寛永寺の塔頭大慈院」に移り「恭順」の意を示すため「謹慎」生活に入った。だが、主戦論者が江戸に在住していてはその「効」が危うくなると思ったのか、江戸から去るように命じていたという。

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主戦論者の旧幕閣の要人、松平定敬、板倉勝静らも登城禁止後、江戸の寺などに謹慎していたが、江戸払いの命に各自本国はすでに西軍に恭順となっており、飛び領地「親族関係」の藩に出立していた。

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「新選組」は元々旧幕府の徴募で出来た浪士の組織であり、帰る国はない。隊士とて脱藩士が多く「江戸残留」せざるを得ない。慶喜の恭順・謹慎によって旧幕府の政事の全権を与えられた勝海舟は「新選組」を江戸より出立させようと「甲府」の鎮撫を命じていた。「定=てい」のいい「江戸払い」である。

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しかし、会津藩は共に京の治安を守ってきた「新選組」を裾にはできない。その軍資金を(二千両)新選組に授与した。

〈江戸城・伏見櫓〉1971年5月12日撮影

新選組

〈江戸残留組も認める会津藩〉

三月一日(3月24日)負傷者の帰国が始まり、三日(3月26日)に終了している。三日(3月26日)には藩士の本格的帰国となり、軍事調練を受けていた砲兵隊もこの日江戸を出立した。この時、会津藩士と共に軍事調練の指導をしていた旧幕歩兵頭並沼間慎次郎は配下の二十余名を率い江戸を脱し会津へ向かった。この沼間慎次郎は旧幕伝習隊第二大隊の隊長である。会津に入り藩士に洋式訓練を施すことになる。また、新選組は旧幕全権となった勝海舟より「甲州城の接収と鎮撫」を命じられ三月一日「甲陽鎮部隊」と称し会津藩士も参加し江戸を出立している。さらに、旧幕臣古屋佐久左衛門・今井信郎らも会津藩士を含む約七百余名を率いて信州中野陣屋へ、勝海舟の命によって「鎮撫隊」として江戸を出立している。

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三月四日(3月27日)藩士の帰国が続く中、「藩命」により「台場構築」の研究のため江戸残留の命を受け、約三十名が残った。その中の佐川主殿ら七名は、二月十三日(3月6日)若松を出立し、江戸藩邸の残務整理の責任者家老西郷頼母に面談し、旧幕陸軍参加の願いを申し入れ、了解をとった。藩としての残留者であったが、実際には脱藩の形をとって江戸潜伏、旧幕諸隊結成する者など数多くの残留者があった。「台場構築研究」の名の下に残った者は、和田倉門内上屋敷明け渡しによって辰の口門外の旧幕府作業方に移り活動することになった。

会津藩

〈江戸城・半蔵門と和田倉門の橋〉

三月五日(3月28日)家老西郷頼母が会津藩士最後の帰国者として江戸を出立した。西郷は松平容保が「京都守護職」を受諾することに「反対」した一人だが、会津藩が「江戸撤退」となったこの日、どんな思い抱いたのであろうか。

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藩命として残った藩士も「台場構築」の研究というが、実際は武器の確保が主要な任務であった。

2004年4月8日撮影

江戸城

〈台場跡〉

「台場構築研究」の名の下に江戸に残留した会津藩士梶原平馬(後に家老となる)は江戸城内の武器借用の願いは行ったものと思われるが、旧幕府全権の勝海舟も「台場」の武器提供は了承したものと思われる。当時、江戸湾には「台場」が つあったという。

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梶原平馬らは約一月に及ぶ「武器」調達後、外国商人の船で四月二日(4月24日)青森回りの海路を新潟港に入った。江戸を出航する時、同船には容保の実弟・桑名藩主松平定敬一行と同乗していた。数日間の船の航行である。桑名藩主はもとより、藩士との面談もあった事と思われる。やがて会津に来ることになるのである。

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桑名藩主松平定敬は三月八日(3月31日)近臣先の「深川・霊厳寺」に慶喜から「江戸を離れろ」との「内意」が伝えられたという。

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どしゃ降りの中の散策であった。「歴史読本」歴史組による台場散策である。靴も靴下も濡れズボンも濡れ大変な日であった。

台場跡

「砲台場」と「かまど場」は当時のものではなく、台場公園として残すに当たり資料に基いて造ったものであるという。

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「藩命」によっての江戸残留者は「台場構築研究」者だけでなく

(1)旧幕陸軍に参加(別伝習隊と名乗った)また「第七連隊」にも参加

(2)情報収集

(3)脱藩の形を取って秘かに江戸在住(情報収集や旗本の主戦論者との交流)後に「彰義隊」加入

(4)新選組に入隊する者

(5)旧幕陸軍「撤兵隊」参加

(6)「衝鉾隊」参加

等々、かなりの会津藩士が江戸に残留している。

台場跡

台場跡

台場跡

〈会津藩家老・西郷頼母帰国へ〉

二月十六日(3月9日)藩主松平容保の帰国、十八日(3月11日)江戸詰藩士の婦女子の帰国開始、三月一日負傷者の帰国開始、三日(3月26日)砲兵隊ら藩士の帰国が始まり、その間家老頼母は陣頭指揮に当たっていたものと思われる。江戸残留を希望する藩士らとも充分に話し合いが行われたであろう。「台場構築研究」の「武器調達」以外の残留者は旧幕府陸軍に参加、また諸隊を結成し新選組に参加する者など、すべて西郷頼母は承知していたものと考える

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三月五日、旧幕府役人立ち合いのもと「和田倉門内上屋敷」を明け渡し終えた西郷は江戸を後にした。江戸に残留した者たちは、多くは旧幕府陸軍の伝習隊であったが「別伝習隊」と称し歩兵奉行であった大鳥圭介の下に「調練」を続け、徳川慶喜の「恭順・謹慎」後の江戸および西軍の動勢を見極めようとしていた。

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一方、「台場構築研究」の梶原平馬は、長岡藩河合継之助の斡旋によって「武器商人・スネル」を紹介され武器購入などを行っていた。また、一柳幾馬、池上岩次郎、神尾鉄之丞らは「台場」から大砲、弾薬、諸器械を借り(幕府から)旧幕府海軍の「順動丸」で函館に至り、更に砲台の大砲や弾薬等々を借りて新潟に送り会津若松に運ばせている。

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「武器調達」の梶原らはスネル商人から小銃等々も購入しているが、長い「海防担当」「京都守護職」等々に藩の財政は逼迫しており、すべて最新式の大砲、銃ばかり購入とはいかなかったらしい。

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西郷頼母は約十日間ぐらいで会津若松城下に到着した。

江戸残留の会津藩士と新撰組動向

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西郷頼母

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