会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

1969年鶴ヶ城パンフレット会津戊辰戦争(弐-三)

松平容保会津鶴ヶ城へ帰国する

 

会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

 

〈会津鶴ヶ城=若松城〉

二月二日(2月24日)松平喜徳は「容保の救解」のため米沢藩主上杉斉憲に藩士を派遣した。使者となった鈴木丹下、土屋鉄之助は「親書」を携えて急ぎ米沢へ向かい米沢藩重臣に面談し、藩主への拝謁を得た。

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この間、米沢藩は幾度となく西軍(大総督府)より「会津追討」の命を受けていた。しかし、米沢藩は仙台藩と共に「出兵」はせず「会津追討」について疑問を感じていた。

鶴ヶ城と展望台から見た磐梯山

鶴ヶ城と展望台から見た磐梯山

〈農兵を組織し「藩境防備」を定め「喜徳」江戸へ出立す〉

二月二日(2月24日)米沢藩主に「容保の救解」の藩士を送った松平喜徳は場内に居住しながらも養父の容保を思えば居ても立ってもいられない心情であった。重臣を招き「江戸行き」を伝えた。家老西郷頼母らが供となって出立が決まった。二月七、八日に若松城を出立したのか、九日に「福良本陣」に入った。

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この時、容保の帰国の報を受けたとあるが、容保はまだ江戸にあって政務を執っている。翌十日(3月3日)旧幕府より「登城禁止」の命を受けるのである。

江戸城に於ける「大評定」も主戦論、恭順に分かれ、中々決定しないでいたが徳川慶喜は全権を勝海舟に与え、すでに「恭順・謹慎」に決した。それまでの江戸の動勢を持った藩士が、福良に入り「帰国」となるのではと報告したのではないだろうか。十一日(3月4日)福良を出立し若松城に引き返すまで、西郷らはより多くの情報収集に働いていたのではと考えられる。しかし、帰城後西郷頼母は重臣らと評議し再び江戸へ向かうのである。

会津若松城2002年4月11日撮影

会津若松城

鶴ヶ城明細図

会津若松城

鶴ヶ城パンフレット

鶴ヶ城パンフレット

会津藩軍制改革

〈軍制を改革する〉

二月二十二日(3月15日)江戸より帰国した松平容保は「恭順」を示すため「御薬園」に入って謹慎したというが、時期は定かではない。二十四日には家督を譲り受けた松平喜徳(十四歳)藩主は容保に政務を託している。実質的には藩主であった。二十四日(3月20日)には、藩士に雷寃を告げている。この時、御薬園に入ったのかも知れないが、三月に入ると藩主の帰国が相次ぎ藩論は「武備恭順」へと大きく傾いていった。恭順非戦を唱える者もあったが、抗戦論に押し切られていった。

「鳥羽伏見の戦い」を体験し天下に知られた「長沼流」の実践的な兵法では洋式化された西軍との戦いでは歯が立たない事を知った松平容保は、新式銃器の充実を図る必要を痛感していたのである。天下に誇っていた長沼流の軍制を捨てることに拒否する藩士も多くあったが、三月十日(4月2日)容保は「軍制の改革」の断を下したのである。そのために江戸に残留させてまでもフランス式の調練を受けさせていたのである。

軍制の改革の柱は

1)軍制を洋式に改める

(2)各隊を年齢別に編成する

(3)農町民を兵士として募集する

の三本柱であった。

年齢別による隊の編成は、四神の名を冠して

白虎隊(十六~十七歳)士中二隊、寄合二隊、足軽二隊

朱雀隊(十八~三十五歳)士中四隊、寄合四隊、足軽四隊

青龍隊(三十六~四十九歳)士中三隊、寄合二隊、足軽四隊

玄武隊(五十歳以上)士中一隊、寄合一隊、足軽一隊

の四隊に分け、これを班席の階級によって士中、寄合、足軽の各隊に区別し、多少の増減はあったが、各中隊長(隊長)一名、小隊頭(二名)教導(一~二名)を置き各隊士は七十二名を定員とした。このほか、各隊に医師、兵糧方、事務、隊士の従者なども加わり実際には一隊は百名以上となっていた。白虎隊だけはその半数であったという。

会津藩軍制改革

〈朱雀隊・白虎隊の誕生〉

三月十二日(4月4日)軍制改革による諸隊の編成がなり、松平容保、喜徳藩主臨席の下「三ノ丸」で朝五ツ半(午前九時)家老萱野権兵衛・内藤介右衛門・諏訪伊助・上田学太輔・:一瀬要人・若年寄一瀬勘兵衛・井深茂右衛門らが居並ぶ中、諸隊長・隊士の対面式行われた。

朱雀隊・白虎隊の誕生

〈御三階楼〉

「若松城」解体時に「御三階楼」と「大書院」の玄関を城下町(七日町)「阿弥陀寺」が払い下げ境内に移築し現在に至る

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藩の重臣らがここで秘密会議を行ったという。会議中は階段を隠して人が登って来られないようにすることができたといわれる。

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「御三階楼」と「本丸御殿内の玄関」は若松城唯一の遺構である。

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若松城本丸に再移築された茶室「麟閣」の北側に残る「御三階楼」の方形の石垣である。

(上)2002年8月10日撮影

(下)2006年6月18日撮影

御三階楼

「軍制改革」詳細

各隊の任務は、朱雀隊が第一線に出て戦う実戦部隊、青龍隊が藩境の守備隊、玄武隊・白虎隊は予備隊として城内、城下に滞陣。

さらにこれらの主力部隊のほかに、砲兵隊、遊撃隊、築城兵を加え約二千名をもって「正規軍」を組織した。

また、軍制の改革によって募った農町民は主として、工兵(陣地の構築など)輜重(しちょう)兵(大砲などの運搬)を養成するため二十歳から四十歳までの身体強健な者、約二千七百名である。(敢死隊、正奇隊と呼称された)これを四郡各組に別け、組ごとに各村の郷頭、帳書、肝煎を置き「帯刀」を許し、代官、支配役、帳付などを配置し(藩士)指揮する。

このほかに猟師隊、力士隊、修験隊(神官・僧侶)も編成し会津藩の全兵力は約七千名を超えたという。しかし、砲兵隊には大砲が少なく殆んど小銃であったという。

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長きに亘って幕府の「海防策」に尽力した会津藩は財政も大変な問題となっている中、「京都守護職」の任に更に財政は逼迫していた。徳川宗家のためと奮闘してきたが、藩自身の改革は遅れがちとなり旧幕府より越後の領地を預かっても、直ぐには財政の建て直しとはならない。そんな中での「軍制改革」であったのである。体制は以前に増して強化されても、武器の改革は財政事情により、当時の最先端の砲・銃の購入はままならない情況であった。江戸から鋳造工の職人を雇ってきていたが・・・。

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「軍制改革」によって旧来の槍・刀中心の長沼流からフランス式の洋式の軍に改革したが、身分を撤廃し戦術・戦略に富む人材を将校級に抜擢する程の大改革には程遠く士中・寄合・足軽と身分別にこだわり、さらに隊長級以上の配置も人材優先ではなく門閥、身分が優先されたことが機略にとんだ作戦、戦いに後々影を落としていくことななった。

会津藩軍制改革

松平容保は「恭順謹慎」を朝廷に届け出ていたが、朝廷を牛耳る薩摩・長州藩の参議らは矢継ぎ早に奥州諸藩に「会津追討」の命を発し、西国諸藩を征圧し終えると「北陸道」「東山通」「東海道」「奥羽」への鎮撫隊を出動させていた。このような情勢に容保はいくたびも「嘆願書」を出していくことになるが、西軍の侵攻が強化される中では、「武備」もやむを得なかったといえる。

会津藩と新発田藩の関係

1969年5月若松城・天守閣入城時のもの

1969年鶴ヶ城パンフレット

1969年鶴ヶ城パンフレット

1969年鶴ヶ城パンフレット

1969年鶴ヶ城パンフレット

資料=幕末維新三百諸隊始末

会津若松藩

会津藩軍制改革各部隊

白虎隊・幼少隊・婦女隊・朱雀隊・青龍隊・玄武隊・奇勝隊・正奇隊・義集隊・勇義隊・新隊・寄正隊・修験隊・新撃隊・歩兵隊・敢死隊・義勇隊・別撰組・書生組・神青龍隊・力士隊・鎮将隊・会義隊・遊撃隊・新錬隊・順風隊・狙撃隊・護衛隊・別伝習隊・赤心隊・信意隊・別楯隊・猟師隊・遊軍隊・新遊撃隊・築城隊・報国隊・誠志隊・敬身隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

会津藩軍制改革各部隊

 

 

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