〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉

会津戊辰戦争(壱-一)

房総(富津)、品川沿岸警備

 

〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉

 

安政六年(1859年)九月幕府は、未だ未開拓地の多い「蝦夷地」沿岸に頻繁に姿を現すロシア船に対する警備、「函館港開港」に向けても、防備体制が重要となり、幕府はこれまでの「海防警備」に実績のある会津藩など四藩にのの警備を命じた。しかし、今回は「開拓」も同時に命じ、その地を領地として与えた。会津藩は「品川沖・第二台場」の警備を解かれ、さらに北端の蝦夷地の開拓と警備を命じられたのである。

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幕府は安政五年(1858年)「大老」に就任した「井伊直弼」は、アメリカと「日米和親条約」を締結し、十二月にはロシアと「日露和親条約」を調印した。「函館」を開講するとともに、「下田」「長崎」も開港する。ロシアとは国境も定めた。翌二年二月には「蝦夷地」を「松前藩」から公収し、「函館奉行」の管轄に移した。三月には「仙台」「秋田」「津軽」「南部」「松前」藩に蝦夷地を分割し、警備を命じ、さらに翌六年には「会津」「庄内」藩にも命じてきたのである。会津藩はシベツ・シャリ・モンベツの三地方が会津藩領となり、「網走」は幕府直轄地であったが、その警備も会津藩が行うこととなった。

蝦夷地各藩分治図

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会津藩はこのため、田中玄継を蝦夷地若年寄に任じ、副将代とし、その下に武官二百人、文官として普請奉行、代官、医者ら百七十六人を派遣した。函館、戸地地に「会津陣屋」「会津屋敷」「会津蔵産物所(会所)」を設け、「東蝦夷地」の本拠地とした。それぞれに藩士を派遣し、常駐させた。これらの維持費も膨大なものとなった。

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こんな情況の中、会津藩は文久二年(1862年)、「京都守護職」の就任要請が命じられてくるのである。安政年間になされた外国との通商条約が朝廷(天皇)の勅許を得ないまま行われた事に対する不満等々が爆発し、「桜田門の変」「坂下門の変」が起き、また「攘夷」の声が巷間に湧き起こり、特に「朝廷」のある京洛には「天誅」と称する「テロ」が頻繁に起こり、「治安・世情」が大きく変化してきたのである。

東蝦夷地警備

「東蝦夷地」の警備を命じられた会津藩は「陣屋」や「物産会所」「出張陣屋」を設け、多くの藩士を派遣した。安政六年(1859年)の事であった。文久二年(1862年)「シベツ」に「陣屋」を建設するため「鈴木平八」と「嶋影徳之助」が出張を命じられ、会津若松を出立したのが、八月六日「越後街道」から日本海側を北上し「青森」に入り、閏八月五日(9月28日)夕刻「函館」に至った。六日「戸切地」陣屋に至り、「四千六百両」で南部の大工兼松に請負わせ、翌文久三年二月二十六日(4月30日)建設が開始された。

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文久二年には松平容保藩主が「京都守護職」を命じられた年である。会津藩は蝦夷地の警備とともに、さらに「重荷」を背負わされ、藩にとってもその財政は容易なものではなかったのである。

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会津藩士・南摩綱紀(つなのり)は文久二年から慶応三年(1867年)までの六年間、「シベツ代官」として勤めた。最初の代官は「一瀬紀一郎」であったという。慶応二年、「籾山省介」が「紋別代官」に「河瀬重次郎」は「御開御普請奉行」として蝦夷地常詰となり、紋別、函館留芽として「常駐」した。この他に「群奉行」に樋口佐多助、「勘定方」に高津藤蔵、「戸切地陣屋」奉行に蛯名群治らがいる。皆「会津戊辰戦争」に出てくる主要人物である。「籾梯次郎」も一年間「斜里の代官」に赴任している。

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会津藩士は蝦夷地の警備に当たったのは九年間であった。慶応四年の「戊辰戦争」の勃発によって蝦夷地から撤退となっていく。この間、会津藩は警備もさることながら「新領地」の経営に力を尽くしたのである。当時、蝦夷地は「米」が殆んど獲れず、漁業だけが唯一の産業であった。現在、会津に残る「ニシン」や「ボウタラ」の料理がここから発源されたのである。

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この九年間の防備と開拓に多くの藩士が病没している。「標津」「紋別」にはその墓が今もあるという。

東蝦夷地警備

会津藩は二十万石。文化七年(1810年)から一時は免除されたが、長きに亘っての「海防警備」に莫大な費用を費やしている。幕府から石高の増額、援助金は支給されているが、とてもそれだけでは賄えるものではなかった。「房総沿岸警備」期間中、弘化四年の一年間だけでも「金八万一千五百三十一両」「米二万八千二百五十七俵余」を使途しているのである。領民にも不安が起きている。家臣からの借り入れに頼ったりもしていた。再三、幕府へ援助を申し入れるが、必ずしも実行されてはいなかった。

開国への道

そんな情況の中、「京都守護職」の就任要請が起きてくるのである。文久二年であった。この「守護職」がでてくるまでの情勢を少しだけ追って置きたい。

東蝦夷地警備

ペリー艦隊が再来航した嘉永七年(1854年、のち安政元年となる)一月十六日(2月13日)、幕府はその応接に時を稼ぎ、二十八日「溜間詰(政勝を老中と討議し、直接将軍に意見を上申できる大名)」および同格の諸大名の登城を命じた。主な大名は彦根藩主井伊直弼、水戸藩主徳川斉昭、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)会津藩主松平容保ら(溜間詰大名)がいる。

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この「評議」は大きく分けて二つの意見に集約された。

(1)幕政参与職の徳川斉昭の意見

断然ペリー打払いに決し、士長を振起し人心をひとつにし、挙国一致の体制をもって対決する

(2)堀田正睦(のちに老中となる)、井伊直弼(のちに大老)の意見

イ)鎖国を維持することは国際情勢から難しい

ロ)「海防」が充実していない以上「攘夷」は無理

ハ)交易は必要であり、積極的に海外への進出もめざすべき

二)そのため「大型船」の建造を許可し、軍艦も必要

ホ)「国是」は時勢に応じて定めなくてはならない

との意見に集約されたが「溜間詰」の大名の殆んどが(2)の論に同調した。

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この結果、横浜で三月三日、「日米和親条約」が締結されたのである。この間、筆頭老中阿部正弘は、前年のペリー来航時は「鎖国」の立場であり、斉昭とよく協議したりしていたのだが、しかし、次第にその難しさを知り、近代化された諸外国の軍艦、兵器に日本は太刀打ちできない事をさとったのである。

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「条約」は(1)正式に国交を開き(2)航行に必要な食糧・薪炭を補給を許可する―内容であった。前年、多くの藩主・幕臣らに意見を求めるなど、活気的な事をした阿部だったが、朝廷にも「奉申」し、「嘉納」されたのである。

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幕府は阿部正弘が没すると、佐倉藩主堀田正睦を「筆頭老中」に就任させた。

東蝦夷地警備

ペリー来航時、徳川将軍は十二歳家慶だったが、直後に没し、十三代将軍に徳川家定が三十歳で継いだが、生来病弱で子供もなく、政務執行もままならない状態であった。そのため「世子」継ぎめぐる動きが起きていた。嘉永七年五月に「安政」と改大され(十月二十七日)ほどなく「安政二年」となった。この年、「安政の大地震」が起こり、大きな被害が出、また有力な諸藩の重臣(水戸藩藤田東湖など)も圧死したりしている。

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そんな中、佐倉藩主堀田正睦が再び老中となり、アメリカに次いでイギリス・フランス・ドイツ等々の欧米列強国と「和親条約」を締結するが「領事館」の設置などの問題も起こり始めてくるのである。

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さらに安政四年(1857年)になると「将軍跡継問題」が表面化し、また諸外国が通商(貿易)条約の締結を求めてきたのである。

イ)ドイツ商船「下田」に入港

ロ)イギリス艦隊「函館」入港

ハ)フランス艦隊「下田」へ来航

二)アメリカ総領事ハリスが「下田」に到着

ホ)長崎に海軍伝習所設置

等々の問題が次々と幕府に振りかかってきたのである。

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堀田正睦老中はこれらの情況から「日米通商条約」締結の意思を固め、上洛し「朝廷」に「勅許」を願い出、約一ヵ月に及ぶ接渉をするが、天皇はついに「調印拒否」を下したのである。その責任をとって堀田正睦は老中を辞任するのである。

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ここで少し休題し「佐倉藩の史跡」を追ってみる。

〈堀田正睦銅像〉〈佐倉城趾〉

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