〈会津藩公用人、活躍す〉

会津藩公用方京都守護職時代

〈黒谷・金戒光明寺=会津藩本陣跡〉

〈会津藩公用人、活躍す〉

 

〈公用人、活躍す〉

初めての京洛にあって公卿との接渉、諸藩との交流、町奉行、所司代との交渉、更に市中の浪士の情況等々に大変な思いの日々である。風習、言葉も大きく違う土地での活動は並大抵の事ではなかったと思われる。花街でも豪遊できる程の資金とてなかったと思われる。入洛以降、すぐに市中の治安が安定したわけではなかった。強権出動は松平容保の留意から発動はしていなかった。京の浪士は守護職何するものぞと、暗殺を止めることはなかった。

公用人

会津藩公用人

会津藩公用人

会津藩公用人

〈高瀬川〉

松平容保は、入洛前に先鋒隊の公用方として藩家老田中土佐、外交方の公用人に野村左兵衛山室金吾、外島機兵衛、柴太一郎、大庭恭平(浪士として潜入させる)、柿沢勇記(鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻った時、旧幕軍伝習隊に入る)、宗像直太朗らを京都に出し、宿舎の設営、食料の調達を行わせた。(宿舎は前記の通り黒谷金戒光明寺に決まった。)公用人は京都、大阪の政局と情報収集に奔走する。特に攘夷派浪士とその公卿たちの動向を入念に調べた。柴太一郎は同志の金子与三郎の人脈から伊勢の山田大路親彦、松坂の世古格太郎に接近し、攘夷急進派公卿三条実美に公用人の野村左兵衛と共に拝謁することに成功。勅使の江戸へ行った時の冷遇などを改めるならば、容保が入洛の時には朝廷への取り継ぎの力になろうとの言葉を受け、容保へ知らせた。容保はこれを幕府に提言し、朝廷への待遇改善をさせたという。公用人の情報は会津藩入洛には大きな力になっていた。入洛後も活動は続いた。

高瀬川

〈一力亭跡〉

会津藩は、入洛後ただちに「公用人」の部署を設け、京の動き、諸般の動き等を、京洛の繁華街の料亭に於いても、情報収集に務めたとという。莫大な資金がかかる京都守護職から会津藩士がそれ程花街が出入りできたとは思えぬが、諸藩の公用人との接触等々は矢張り、花街を使用したのであろう。文久三年(1863年)10月10日「公武合体」派の会議がこの「一力亭」に於いて、会津・薩摩・安芸・土佐各藩が集まり行われた。新撰組局長近藤勇も会津藩に招かれ出席していた。

一力亭

〈輪違屋〉

松平容保は入洛して間もなく(文久三年一月七日=1863年)公用方を守護職屋敷に設け、強化する一方、町奉行の改革にも着手し、平福飄斎らの有能な人材を登用し、町方(市民主に浪士)には国事を理由に横暴行為を散開し意見のある者は申し出よ、建白書でもよく時によっては守護職自ら対面すると布告、いわゆる「言路洞開=げんろどうかい」である。

輪違屋

〈輪違屋の内部〉

輪違屋

輪違屋

輪違屋

輪違屋の特別公開~江戸時代の京都島原を思う

会津藩公用方

会津藩公用方

〈四条河東町通り〉

1969年3月21日撮影

河東

幕末公家屋敷地図

幕末公家屋敷地図

「言路洞開」(げんろどうかい)

松平容保が京都守護職に就任する以前から京洛は「天誅」と称する暗殺・テロが横行し、治安・政情も過激な公卿・浪士らの横暴がまかり通っていた。

「守護職」の一つ仕事に「公武合体」があった。しかし、「朝廷」内部の「朝議」には将軍でも列席して発言することはできない。過激な公卿らが牛耳って幕府に難題を「勅許」として振りかざしていたのである。

-◇-

松平容保が「入洛」後も、それらの動きは一向に鎮まらなかった。当初、容保は過激な浪士らと語り合えば理解は得られるはずと「言路洞開」の姿勢であったという。しかし、職務が多忙を極め、仲々逢う機会はなかったという。そんな「守護職」の態度にますます天誅・テロは激しくなっていった。

しかし、松平容保は「足利将軍」の三代の梟首にはさすがに憤りを現わにし断固捕らえる事を命じたのである。

〈足利事件〉〈姉小路事件〉

諸大名本陣所在図

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