会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結①

正法寺会津戊辰戦争(参-二)

長岡藩家老河井継之助、小千谷会談決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)

長岡へ集結①

 

〈奥羽列藩同盟から奥羽越列藩同盟に拡大なる〉

五月二日(6月21日)小千谷・慈眼寺での西軍との談判が決裂し、長岡藩河井継之助は三日戦いを決意する。一方、会津藩は同日、片見の戦いに敗れた。四日会津藩朱雀四番士中組の隊長・佐川官兵衛は、摂田屋村の長岡藩本営を訪ね、面談し会津・長岡の同盟を結んだ。これを受けて越後五藩は新発田城下に重臣が集まり、奥羽列藩同盟へ加入を表明した。勿論、米沢藩の同盟加入の働きの効力があった。

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟とは?伊達家を中心とした東北31藩が戊辰戦争に敗れる

〈上除の戦い〉

一方、片見の戦いで敗走した会津藩は四日、長岡城下に終結したが、諸隊と離れてしまった。朱雀寄合二番(隊長土屋惣蔵)は、再び上除村へ出陣し五月六日、西軍と戦いとなった。雪辱をはらすはこの時とばかり勇敢な戦闘を展開、大砲が壊れるほどの砲撃を開始、接近すると激しい白兵戦を繰り広げ、ついに西軍の大砲二門を奪う勝利を収めた。

-◇-

この夜、見附から出陣してきた水原陣屋守備の陣将・萱野右兵衛の一隊が着陣する。しかし、大雨、風が激しくなり八日まで滞陣となった。

-◇-

さらに会津藩の諸隊も長岡をめざして進軍する。

上除の戦い

 

〈日本海、沿岸での戦い〉

五月四日(6月23日)、前日の片見の戦いで敗れた会津藩結城隊らは関原に退き宿陣し、長岡城下へ向かった。五ッ半(午前九時)出立し、夕刻城下に入り、同じく片見で戦った佐川官兵衛らと合流する。

-◇-

一方、北陸道海道軍は鯨波の戦いに敗れた後、小千谷を山道軍が侵略したため柏崎に浸出でき、本隊を柏崎に置き先陣を出陣させていた。

与板方面略図

 

五月四日(6月23日)夕刻後、長岡城下に入り会津藩佐川官兵衛(朱雀隊)らと合流した結城隊の井上哲作は、その夜出雲崎に守備する田淵房之進らが援軍を求めて訪れたのを知り、陣将佐川官兵衛に願い出て出陣の許可を得た。

-◇-

その許可が降りたのは五日であった。佐川ら諸隊長と評議し今後の方針を定めた後であったと思われる。

-◇-

五月六日(6月25日)結城隊は大雨で信濃川が大増水で渡し船が欠航であったが、多分の金を払い、無理に船を出させ、地蔵堂まで下り上陸、寺泊へ向かった。そこには荒浜の戦い後、退いてきた衝鋒隊の前軍を率いる副総督今井信郎らが在陣していた。

-◇-

結城隊隊長の井上と渡部は面談を申し入れ海岸線の情況等々の情報を聞いた。その後、衝鋒隊は妙法寺に布陣する桑名藩と共に長岡城下に出立した。

-◇-

結城隊はこの日寺泊に宿陣する。

会津藩諸隊長岡へ

〈荒浜と周辺の戦い〉

同じ五月六日(6月25日)西軍海道軍の一隊が荒浜に布陣する水戸諸生党へ攻撃を仕掛けてきた。その報を聞いた妙法寺に滞陣していた衝鋒隊の一部(中軍)桑名藩の諸隊は援軍に出陣した。

-◇-

この日会津藩は水戸諸生党と共に宮川に宿陣していた。朝七ッ(午前四時頃)西軍が押し寄せ攻撃する。夜明けと共に激しい銃撃に混乱となり散々の体で敗走。西軍は二手に分かれて攻撃したのか、赤田方面に敗走する東軍を追撃する。逃走した東福院へも追撃され、放火され山越しに脇野まで敗走している。また諸生党ら椎谷陣屋まで退いた者も多い。

-◇-

しかし、妙法寺から出陣した援軍・衝鋒隊・桑名藩は赤田に於いて防衛陣形を敷き激しい反撃を開始している。衝鋒隊の副隊長松田昌二朗、平山均らは西軍の背後に進み攻撃、数刻(三~四時間)戦うが、平山均が戦死し、利なく妙法寺へ退いた。

-◇-

一方、桑名藩は大軍の西軍に対して一歩も引かず銃撃戦を展開した。夕刻迫るまで応戦した。衝鋒隊は弾薬乏しくなり引き揚げを伝えてきた。赤田方面には戦火が上がっていた。西軍への夜襲を考えていた桑名藩ではあったが、妙法寺へ退いた。

-◇-

この日西軍はやはり、二手に分かれ海岸沿いと山間の攻撃態勢であった。

荒浜と周辺の戦い

 

妙法寺村に退いた東軍の宿陣先に会津藩士永岡敬次郎が早馬で駈け付け「直ちに全軍長岡城へ集結されたし」と告げた。やむなく、夜遅く出立となったという。途中、剣阻の妙法寺峠を越えるのに雨のため難渋したという。関原で出て翌七日の黄昏に長岡城下に入り、桑名藩士は長永寺に本営を置いた。(八日に城下へ到着したとの説もある)=こちらが正しいようだ。

-◇-

一方、西軍の海岸沿いの諸隊に襲われた水戸諸生党は会津藩の援軍と散り散りの体に合うが、ようやく反撃体制を取ると椎谷辺りで戦い、椎谷藩陣屋に赴き、同盟加盟を訴えるが功なく、石地に進み布陣する。

赤田・妙法寺方面の戦い

五月六日(6月25日)柏崎に侵入、布陣していた西軍北陸道の海岸沿線(海道軍)が暁七ッ(午前四時)頃、突然攻撃してきた。急襲攻撃であった。閏四月二十四日(6月14日)会津藩が三国峠の戦いに敗れ、柏崎・鯨波で勝利した同盟軍であったが、挟撃の恐れから撤退し、小出島・小千谷などに会津藩と共に布陣していたが、二十七日小出島も侵略され旧幕軍衝鋒隊、桑名藩らは妙法寺へ退き、布陣していた。

-◇-

会津藩、水戸諸生党は出雲崎より出陣し荒浜に先鋒陣を置いていた。急襲攻撃に反撃するも、ついに撤退となった。宮川・椎名でも反撃を試みるが多勢の西軍の進撃に押され妙法寺方面に退いた。一方、妙法寺に布陣していた同盟軍の一隊となった桑名藩、旧幕衝鋒隊が放砲銃声を聞きつけ出陣し、赤田で激戦を展開する。さすがに西軍の追撃も止められてしまった。しかし、諸生党死者十七人、負傷者八人、衝鋒隊小隊長平山均戦死、を出している。

赤田方面の戦い

西軍は二手に分かれて攻撃した。一隊は日本海沿いに、一隊は妙法寺方面へ(関原村をめざしたという)。水戸諸生党、会津藩(妙法寺にも配陣していた)は海岸線を北上したという。

-◇-

赤田の戦いに参戦した会津藩は東海寺を本陣としたようだが激しい攻撃に放火し妙法寺へ退いたという。

-◇-

海岸沿線を退いた水戸諸生党は椎谷で約二時間の戦いを展開後、退去するが西軍が柏崎に戻ると再び戻り、椎名藩の陣屋(堀之美=ゆきよし一万石)、町屋に放火し引き揚げている。

-◇-

七日の夜、会津藩士永岡敬次郎が急使として訪れ「全軍長岡城へ集結」との命を持ってきたため、妙法寺に布陣する同盟軍は長岡城へ向かった。この頃、日本海沿岸を守備していた諸隊は

(1)会津藩=田淵房之進、佐藤力之助、大庭源之助らの諸隊

(2)水戸諸生党=市川三左衛門、朝比奈弥太郎、筧助太夫(佐渡への出張)の三家老率いる

(3)旧幕・衝鋒隊=総督古屋佐久左衛門、副総督今井信郎、内田庄司、参謀楠山兼三郎

(4)桑名藩=雷神隊(立見鑑三郎)、到人隊(松浦秀八)、神風隊(町田老之丞)

らの諸隊が布陣していた。しかし、水戸諸生党、桑名藩は全員が滞陣していたわけではなく、一小隊くらいずつ他方面へ同盟軍として出陣している。

日本海沿いの攻防

〈会津藩結義隊の動向〉(1)

一方、片見の戦いで敗れた会津藩諸隊は脇野町に多くの者が集結し五月四日(6月23日)長岡城下に向かった。暮五ッ半(午後九時)頃、着陣する。その夜、出雲崎守備の会津藩士が長岡城下を訪れ援軍を求めてきた。結義隊渡部英次郎・井上哲作両隊長は佐川官兵衛の許可を得て出陣となった。

五月六日(6月25日)結義隊は出雲崎に出陣し地蔵堂村で昼食し寺泊に入った。そこには妙法寺に布陣する衝鋒隊の一隊を率いた副隊長の今井信郎が布陣しており、面談し西軍の情勢等々を得た。桑名藩の三隊も妙法寺方面の赤田に防衛陣を構えていることを知った。

会津藩結義隊の動向

〈赤田の戦い〉

一方、慶応三年(1867年)十二月の王政復古により京都に在住していた水戸藩士(約三百人、尊攘派(天狗党派)は、翌年の正月鳥羽伏見の戦いで勝った西軍は二月朝廷から除奸反正(諸生党派の排除)の勅書が下り、江戸藩邸に戻ると、それまで藩政を司っていた諸生派を締め出し、暗殺される者も出た。さらに三月十日(4月2日)水戸城に入り藩政を奪い、その夜諸生派は水戸城を脱出、縁の深い会津へ向かった。

-◇-

しかし、この頃の会津藩は強硬姿勢を崩さない西軍に対し武備恭順であったが、微妙な情況から水戸諸生党を城下へ入れる事はできず、城下周辺に二泊許可し越後方面へ向かわせた。謝罪歎願中の会津藩は諸藩の者を迎え入れる事はできなかったのである。

-◇-

会津を出立した諸生党は、四月八日(4月30日)新潟に着陣、四月十六日(5月8日)寺泊に入った。この時、諸生党はおよそ四百~五百人程に減っていたという。途中(三月時点)脱退、脱者が出たためである。また新潟では家老筧助太夫らは軍資金調達のため、佐渡へ向かった。

-◇-

寺泊から旧幕府領出雲崎陣屋に入り、本陣とし一隊を荒浜に出陣し会津藩・衝鋒隊、桑名藩士らと共に西軍と戦う態勢を整えた。荒浜に布陣した諸生党は家老朝比奈弥太郎、大森信任の一隊であった。(この辺りの詳述は「水戸天狗党(六)」を参照)

赤田の戦い

〈再び結義隊の動向〉

一方、会津藩結義隊(二小隊、井上哲作・渡部英次郎隊長)は、家老佐川官兵衛の許可のもと、援軍要請に応じて出陣し、五月七日(6月26日)寺泊から出雲崎に至った。出雲崎陣屋を本営とする諸生党市川三左衛門らが滞陣、会津藩が布陣していた。結義隊は陣屋に赴き、市川と面談後、物見として両隊長が十人程率いて先鋒陣営として布陣する諸生党・筧助太夫、朝比奈弥太郎、会津藩陣営を訪れ軍議を行った。

-◇-

少ない陣容で守備していた会津藩は援軍来訪に喜んだという。

結義隊動向

〈正法寺〉水戸諸生党宿陣

五月八日(6月27日)昨日の軍議に基づき、結義隊の一小隊は出雲崎より石地に出陣し、諸生党の筧助太夫隊と共に灰瓜に布陣、諸生党朝比奈弥太郎らは市野坪へ出陣し正法寺を本陣とした。

-◇-

五月十四日(7月3日)柏崎に滞陣する西軍薩摩・長州藩の攻撃を受け、寺は炎上した。

2003年10月14日撮影

正法寺

 

五月七日(6月26日)結義隊は援軍要請に来た田淵房之進らと共に出雲崎に出陣し、そこに在陣していた水戸諸生党の先鋒隊と出会い、早速海岸線の情況を知るべく石地に向かった。

-◇-

石地には昨日、衝鋒隊、桑名藩と荒浜で西軍と戦った水戸諸生党の隊長朝比奈弥太郎、同筧助太夫らが約四百人の隊士らと共に滞陣していた。結義隊井上哲作、渡部英次郎両隊長、田淵房之進らと軍議を行う。

-◇-

水戸諸生党は総勢六百~八百人といわれ、総帥の市川三左衛門は一隊を率いて同盟軍の一員として三条方面に出陣し、会津藩と共に布陣していた。(水戸諸生党については詳細は「幕末水戸天狗党」を参照)

-◇-

軍議を終えた会津藩諸隊は出雲崎、石地に戻り、出陣の準備を整えた。

-◇-

水戸諸生党の筧助太夫は一時、一隊を率いて佐渡に渡り軍資金の調達をしていたが、越後の戦雲迫るにつれ戻っていたのである。

結義隊動向

〈出雲陣屋(代官所)跡〉

五月八日(6月27日)昨日の軍議により、出雲崎に宿陣して結義隊の一小隊(井上哲作隊長)を呼び寄せ、石地に布陣(守備)させ、もう一方の一小隊は水戸諸生党の筧助太夫が率いる一隊と灰瓜に布陣、同党の朝比奈弥太郎の一隊は市野坪に出陣し、会津藩井上哲作は灰瓜より進み薬師峠に布陣する。長岡城下に近い関原に布陣する西軍の動静を探索するためもあったが進軍を阻止するためであった。しかし、余りの寒気のため、見張りを置き峠下の民家に宿陣した。(九日のことである)隊長の井上哲作は峠の頂きに野営している。

写真=常陽芸文2006年12月号 戊辰戦争・水戸藩と近隣諸藩の動き

右下の柵内が陣屋跡

出雲陣屋跡

水戸諸生党は慶応三年(1867年)の大政奉還により、それまで水戸城にあって政務を執っていたが、慶応四年の正月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、それまで二条城の守備として京洛に居住していた水戸藩士らが朝廷から水戸諸生党んじょ追討令を下賜し水戸城に向かったため、水戸諸生党は戦いを避け、会津に向かったがこの頃の会津藩は仙台・米沢藩が会津救解のため活動している微妙な立場であったため、会津領内に他藩の者の入領を許可できない情況であり、水戸諸生党は領内通過を求め、越後方面をめざし天領地に入り滞陣していたが、閏四月二十七日(6月17日)の鯨波の戦いが起こると(出雲崎陣屋に滞陣)朝比奈弥太郎率いる一隊を応援のため出陣させた。

-◇-

五月三日(6月22日)奥羽列藩同盟が正式に成立する中、水戸諸生党は妙法寺の西一.五里(約6㎞)にある椎名藩(一万石)の陣屋に乗り込み東軍(同盟軍)への参陣を求めた。椎名藩は秘かに宮川方面に侵出していた西軍に密使を派遣し援軍を要請した。妙法寺村と椎名陣屋に西軍が侵出し戦いとなった。会津藩と共に反撃するが、戦死十七人、負傷七人、捕捉十五六人を出す敗戦となった。この戦い後、朝比奈弥太郎は佐渡へ渡っていた筧助太夫の隊を呼び戻し出雲崎陣屋に滞陣していたのである。

会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結②

出雲陣屋跡

コメント

タイトルとURLをコピーしました