〈会津藩、大阪を撤退〉
「大阪城」を枕に起死回生の戦いを胸に傷付きながらも、また僚友の手助けを借りながら、大阪城に一月六日入った旧幕軍、会津、桑名藩、新選組らは「たとえ一騎になっても戦う」と宣言する徳川慶喜に皆、皆、興奮を新たに決戦の意を強くしていた。また、会津藩は入城せずに戦いを続行していた隊もあった。
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しかし、その夜、慶喜は城を脱け出す。残された兵士らは翌朝それを知り、義憤やる方ない胸中であったが、いかんともなく全軍撤退となった。
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会津藩士らは負傷者は旧幕軍海軍の軍艦で、他は陸路でそれぞれ江戸をめざすこととなった。その胸中はいか程のものであったろうか。一年おきに交代とあっても文久二年に「京都守護職」の会津藩士として奮闘し、孝明天皇の絶大な信頼を得た会津藩、それが薩長の陰謀によって京を去る思いは無念さで一杯であったと思われる。
これより先、大阪撤退の動きをまとめてみる。
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幕艦で江戸に向かった会津藩士らは、紀州湾「由良港」に入港すると、すぐに出航せず滞陣する。その間、陸路をとった会津藩士らを待っていたものと思われる。
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一月十五日(2月8日)負傷者が江戸に到着後、十八日、家老萱野権兵衛、内藤介右衛門らが「紀伊」を出航、二十一日品川沖に着船、二十四日砲兵隊が品川沖に入船する。これが最後の江戸入りと思われる。
一月十二日(2月5日)
一月十三日(2月6日)
一月七日(1月31日)
一月八日(2月1日)
〈京都見廻組・佐々木只三郎の墓=会津藩士〉〈会津武家屋敷内〉
見廻組を率いて戦った佐々木只三郎は会津藩手代木直右衛門の実弟で三十六歳だった。一月六日(1月30日)の橋本方面の戦いで腰に銃弾が当たり、大阪に戻り、一月八日(2月1日)見廻組の配下二百名とともに紀州へ下り「紀三井寺」で療養中、十二日(2月5日)に死亡する。
同じ見廻組隊士・土肥仲蔵も戦いで負傷し十一日(2月4日)紀州由良の「念興寺」本堂で自刃したと伝わる。墓は同寺にあるという。
この佐々木の墓は「紀三井寺」に建立されていたもの。寺で新しい墓を建てた際に「会津武家屋敷」に移転されたもの。
一月十九日(2月12日)
一月十九日(2月12日)砲兵隊尾鷲港を出帆して的欠港に入港、二十三日(2月15日)まで滞在する。

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