北越戊辰戦争・朝日山攻防戦1

〈同盟軍朝日山を占拠する〉
前日(十日)五ッ半(午後九時)頃まで榎峠攻防戦で西軍は砲撃したがその翌五月十一日(6月30日)同盟軍は諸隊の本営を六日市に移し榎峠を守備している。勿論、胸壁、砲台を備え宿陣した諸隊も布陣し、金倉山、妙見山(石坂山)にも布陣している。
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明け六ッ(午前六時)頃、同盟軍が布陣する妙見と対岸の高梨村に(現越の大橋辺り)に進軍した西軍との間で砲戦が開始された。
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西軍は北陸道鎮撫総督府の参謀山県有朋が海道軍参謀黒田清隆と分かれ山道軍の本営小千谷陣屋に入り、同行した時山直八を軍監岩村精一郎に代わって指揮官とし、自らは総指揮官となり、この日の戦いにのぞんでいた。

〈越の大橋堤(高梨)から榎峠と朝日山を望む〉と〈三仏生を望む〉
西軍参謀山県有朋は増援部隊(薩摩、長州藩)を率い早朝小千谷を出陣し続々と増水している信濃川を渡河させた。横渡辺りであった。長州藩(奇兵隊という)は皆、最新式のスナイドル銃(後装填式)であった。
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西軍は三仏生から凄まじい長射程の砲撃で援護し六日市から妙見の間は通行不能になるくらいの両軍の砲銃撃戦が展開され、浦柄谷に流れる朝日川を挟んで激烈な銃撃戦が榎峠との間で終日続いたという。午後になり、また大雨となったが、攻防戦は続いた。双方に戦士傷者が多く出る程であったという。会津藩砲兵隊二番組の市岡防衛隊長は六日市に土塁を構築し、西軍の三仏生、高菜の砲弾へ横面から砲撃を開始し、西軍の攻撃陣を悩ませた。
〈浦柄を攻略する〉〈浦柄神社〉
一方、寺沢村に退いた会津藩萱野右兵衛の隊、長岡藩川島億二郎の隊は榎峠方面での砲銃声に再び出陣し浦柄周辺に布陣する西軍に榎峠、妙見山の援護を受けながら攻撃し、陣営を攻略し敗走させた。
2003年10月28日撮影

〈浦柄神社〉と〈浦柄の街並み〉
浦柄の街並みは朝日川(浦柄川ともいう)を挟んで建っている、長閑な街並みであった。
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浦柄神社は朝日山への登り口脇にある。ここを占拠した同盟軍は朝日山占拠を有利にした結果となった。それも十一日の午前中に占拠できたことが、この後の同盟軍の作戦を有利に導いていくのである。
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榎峠攻防戦は激戦であったが、午後四時頃には止んだという。
〈朝日山殉難者墓碑〉(浦柄神社脇)
〈説明文〉
慶応四年五月十一日から、ここ朝日山をめぐる攻防戦が始まった。前日浦柄村を挟んだ榎峠で東軍と西軍の戦いがあった。その榎峠を長岡藩兵等の東軍が占領すると、戦いは榎峠を見下ろす朝日山に移った。朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵、それに衝鋒隊は、大砲を山頂にあげ、西軍陣地を砲撃した。西軍は朝日山をとろうとたびたび攻撃した。とりわけ、五月十三日早朝の長州藩奇兵隊を中心とした攻撃は激しい戦いであった。参謀時山直八など、多くの西軍兵が命をおとした。その遺体は小千谷に送られ、のちに船岡山の墓地に改葬された。朝日山の戦場は、五月十九日、信濃川を強行渡河した西軍が、長岡落城に成功するとにわかに戦いの要衝としての位置を失った。東軍兵士たちは、朝日山の陣地から離れ、戦い場は蒲原の地へ移っていった。残されたのは戦死した東軍兵士の遺体だった。戊辰戦争が終わり、西軍が勝利すると明治政府は遺体のとりかたずけを禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これを見た小栗山村の福生寺住職や浦柄村の人々が昭和二十八年(1953年)に戦死の地に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともに、この地に二十二基の石碑を建立し英霊を祀った。今も浦柄町には史跡朝日山を守る史跡保存会があり墓地や史跡を大切に守り伝えている。なお戦死したなかに、会津藩白虎隊士新国英之介(十六歳)がいる。この墓標は戦後二十数年を経て父がその遺体を探しあてて建立したものである。
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(下)朝日山登山道入り口に立つ案内板である。
〈白虎隊士・新国英之介の戦死の地〉(朝日山)
〈説明文〉
白虎隊新国英之助義成(当時十六歳)戦死の地、この西峰づたいに頂上(慶応四年五月)当時父と共に激戦に参加し壮烈な戦死をとげた。やがて平和の春になるや、父は我が子のめい福を祈り墓を建て三十二回忌が済むまで、毎年お墓参りに来られ、その後村人に託し現在墓は、史跡保存会によって浦柄神社内に祀られている。
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この地は朝日山頂きに登る途中にあり、現在の長岡中心が望める場所である。
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白虎隊士と伝わる新国英之助だが、士中組ではないようで、父と共に参加したとすれば、年齢的に白虎隊であるためそう思われたか、それとも隊から離れ父と共にその隊の付属となって出陣したのではないだろうか。戦死の日も、五月十二日か十三日か定かではないが、恐らく十三日の長州・奇兵隊の奇襲時にこの地で守備陣地に守っていたと推測する。奇兵隊は南側から登ってきているが、土地村人の案内であったが深い霧のため路に迷いながら山頂近くまで肉迫している。その途中にこの陣地があったのである。その時の戦いで戦死したと思われる。十一日の同盟軍の山頂占領時の西軍の攻撃ではないような気がするのである。
〈戊辰戦蹟記念碑〉〈朝日山占領へ出陣する〉
一方、榎峠で戦う会津藩佐川官兵衛の所に交代要員として到着した桑名藩到人隊(山脇十左衛門)、雷神隊(立見艦三郎)が来て、胸壁陣地内で作戦協議を行った。浦柄を隔てた前方に朝日山がある。この山を占拠し頂上から西軍の陣営を攻撃すれば戦いは有利となる。戦略上の拠点である。西軍が占拠する前に同盟軍が占拠することに決まり、直ちに実行する決し、午後二時頃、地理に詳しい長岡藩安田多膳の槍隊を教導役にし会津藩萱野右兵衛の隊と桑名藩の雷神隊の半隊を攻略部隊とし佐川、山脇らは出陣する。
〈浦柄山〉と〈戊辰戦蹟記念碑〉
朝日山の手前の浦柄山に第一台場を設け、防備陣形を設けたという。
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午後からの激しい雨を利用して浦柄に流れる朝日川を渡り、西軍から朝日山へ向かった。
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桑名藩雷神隊隊長の立見鑑三郎は歴戦の勇士であり、同盟軍の本営光福寺を出陣する際、長岡藩軍事総督の河井継之助から”戦いに初めて参加する我が藩兵に卑怯な振る舞いがないように、貴君に戦いの指揮を願いたい”と要請されていた。(いったんは辞退している)
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西軍が布陣する付近を雨を利用して出陣した同盟軍が賛同を登って行くのを目撃した西軍は銃撃を開始すると同時に反対側から長州・奇兵隊の選抜隊も(山の南側)から朝日山をめざした。
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しかし、ひと足早かったのは同盟軍であった。直ちに南側から登ってくる長州兵へ銃撃を加えた。西軍はついに登頂をあきらめ撤退した。しかし、朝日山への攻撃は続いたものともいわれている。
この碑のたくもうは山本五十六連合艦隊の長官によるものという。
〈会津藩士=白虎隊・新国英之助義成の墓〉(浦柄神社)
浦柄神社への案内板の脇に立てられた説明には次のように刻されている。
一、白虎隊、新国英之助義成の墓は戦死の地スミヤ山の頂上に、当時、父が建立したものであるが、昭和二十八年(1953年)に至り、当境内に移したものである。
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スミヤ山とは朝日山へ登る途中に続く山で会津藩萱野右兵衛隊、宮下藤太、水原陣屋詰の代官新国源之丞(英之助の父)らが、守備陣営していたのである。五月十三日(7月2日)夜明け頃深い霧に覆われていたが、西軍長州藩奇兵隊が突然襲いかかり萱野らは敗走し、一旦寺沢村へ退いている。この時の戦いで新国と辰野平太は即死した。銃撃されたものと思われる。
〈無名二十一名の墓=浦柄神社〉
案内板によると、官軍参謀時山直八の墓、会津藩十倉又蔵の墓及び白虎隊、朱雀隊員の墓である。いづれも昭和二十九年(1954年)建立したものである。と刻されているが、西軍時山直八は小千谷稲荷町・船岡公園に碑が建ち、首を持って退却している所から、遺体が埋められたかも知れない。
〈同盟軍朝日山奪取する〉(朝日山古戦場碑)
五月十一日(6月3日)早朝から榎峠攻防戦が展開された。西軍にとって重要な要衝の地である榎峠は互いに必要であった。特に西軍は長岡城をめざすには増水の信濃川渡河は困難であり、この榎峠を陥す外なく、山県有朋参謀自らの出陣で戦いを挑んでいた。
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双方に犠牲者が出る中、砲銃戦が続いていた。午後二時頃、桑名藩家老山脇十左衛門、会津藩隊長佐川官兵衛らは作戦を協議し、朝日山を奪取して執拗に砲銃撃する西軍の陣営、対岸の三仏生の砲陣を潰すことに決し、長岡藩の教導によって朝日山をめざした。
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その動静を知った西軍も朝日山の重要さに気づき、登る同盟軍に砲銃撃し、また登山部隊を急遽出陣させた。西軍との競争の形となった。
〈朝日山古戦場跡の碑〉
〈説明文〉
この地は、もともと大平木(大開)と称していたが、北越戊辰戦争の激戦地であることから、朝日山と称されるようになった。一説に麓から見上げた西軍兵が山頂に輝く朝日を見たので名付けたというが定かでない。時に慶応四年五月十日、三国街道の榎峠で始まった戦いは、翌十一日午後三時頃から朝日山の争奪戦となった。その間にあった浦柄の集落には火が放たれ、村人は逃げまどった。東軍は長岡・会津・桑名藩兵と衝鋒隊。西軍は薩摩・長州両藩兵と信越諸藩の兵。雨中、山頂を制したのは東軍兵であった。早速、大砲をあげ、麓の西軍兵を砲撃した。五月十三日、早朝、長州藩参謀時山直八は奇兵隊を率い朝日山を攻撃した。しかし、桑名藩雷神隊隊長立見鑑三郎らの逆襲に合い落命した。西軍参謀山形狂介(有朋)は、時山の首級と対面し落涙したという。朝日山争奪戦は北越戊辰戦争のなかでも、人の心に残る戦いであった。それはまた、古戦場を持つ浦柄の人々の心をうつものであった
戦後、自発的に戦場を整理し、保存運動を行った。今も慰霊の祈りを欠かさず、その事蹟を心に刻む。
平成十五年(2003年)七月
〈西軍、朝日山を急襲する〉
五月十三日(7月2日)西軍参謀山県有朋は前日軍議を行い、この日総攻撃と決し、増援要請に小千谷本営に前日向かっていた。自分が戻るまで出陣しないように言い残しているが、仮参謀の時山直八は勝手に決行してしまった。
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長州藩士時山直八は短身で一本気といわれ、火の玉と形容されていたという。奇兵隊結成以来、数々の戦場で活躍し勝利を得ていた。”賊軍何するものぞ”の闘志満々であった。しかも時山が率いる隊は西軍の中でもとりわけ勇猛で戦さ慣れた薩長の兵である。奪回できると自信満々であったと伝わる。
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対岸の三仏生から松代藩の砲撃、浦柄に流れる朝日川を挟んでの榎峠への砲銃撃、そして自らは薩摩藩と二手から朝日山を攻略する作戦の総攻撃であった。
資料=会津戦争 痛憤白虎隊と河井継之助
〈塹壕跡〉
先に朝日山を制した同盟軍(長岡藩安田多勝の槍隊が一番乗りしたという)は、直ちに山頂をめざす西軍の激しい銃撃を敢行した。西軍はついに退却となって麓の陣営へと敗走。同盟軍は陣地構築に取りかかった。小栗村、寺沢村などの付近の村々から多量の村人(人足)を動員し、山頂を取り囲むように深い塹壕を掘り、野営の炊事場等々も造成し、武器、弾薬庫なども造った。
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当時は一m以上の深さに掘ったという。塹壕はフランス兵法にのっとって造られた。前面に土を盛り上げ、土のうを積んで胸壁を築き、旧式の前装銃(ミニエー銃)の弾込めも立ったままできる深さであった。さらに前面の雑木林、草木も広く刈り込んで視界を良好にした。
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これら一連の造成は夜を徹して行われたという。
陣地造りに刈り出された近隣の村民は徹夜で陣地構築したというが、大変な思いをした事と思われる。
〈野営場跡〉
一番下 雑草に覆われた釜戸跡
〈第一砲塁の地跡〉
五月十二日(7月1日)村民らの協力で徹夜の陣地構築もなり、長岡藩が砲二門、桑名藩砲一門(四斤山砲)がさらに運び込まれ、直ちに西軍陣営へ砲撃を開始した。終日砲戦が続いた。山頂は桑名・雷神隊、衝鋒隊、会津浮撃隊、長岡藩安田隊が守り、会津藩朱雀隊も佐川官兵衛らと共に布陣していた。一方、前面(南側=スミヤ山)には萱野右兵衛隊らが守備陣営していた。
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正面に土盛りされた砲塁跡が残っている。
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また、五月十三日濃霧をついて攻めてきた西軍仮参謀時山直八が戦死した場所でもある。実際はこの砲塁跡から八十メートル下辺りと伝わっている。

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