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北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2

朝日山山頂の墓会津戊辰戦争(参-二)

北越戊辰戦争・朝日山攻防戦1

北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2

 

〈西軍仮参謀時山直八戦死する〉(朝日山)

霧の中、至近距離での銃撃戦であり、山上からの銃撃は有利であった。西軍は仮参謀時山はじめ教導訳三人、兵士含め戦死傷者三十九名をだしての敗走であった。午前六時から午前八時半の戦いであった。

時山直八戦死の地

時山直八が二十一歳の時(安政五年=1858年三月)吉田松陰の松下村塾に入り学んだ。萩城下から一時間ほどかかる奥玉江村から通ったという。身分は士雇(さむらいやとい)と最下級の武士であったという。因みに山県狂介(有朋)はもっと下の中間の出であったという。しかし、二人とも塾では精神力、気力が優れ、同年齢で不思議とウマがあったとも伝わる。奇兵隊結成にも真っ先に参加し、京都では各地の志士、浪士とも交わり倒幕運動にも参加したが、公武合体派でもあったという。

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西軍が道に迷いながらも偶然に朝日山山頂の同盟軍の陣営直下に浸出した時、同盟軍は朝食の準備中であったという。そこへ霧の中から西軍が突如現れたのである。初めての戦いである長岡藩安田多膳の槍隊は目前に迫る西軍に斬り込もうとする。桑名藩雷神隊隊長立見鑑三郎は、これを押し止どめ大声で怒鳴った。「敵を大勢討ち取った。味方は大勝利である・・・」と。この声に西軍は一瞬ひるんだ。仮参謀時山は逃走する見方を叱咤し反撃に転じようと自ら先頭に立って進んだ。桑名藩大砲師範役三木十(重)左衛門は傍らの銃手から銃を借り狙い撃ったという。

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同盟軍は一斉に射撃、ついに西軍は時山の首級だけを取り退却した。山頂の同盟軍の会津藩伴百悦は西軍の激しい銃撃に防備難しく、退却しようとする所、立見に叱咤されてとどまったという。少し恥ずかしい話も残る。

時山直八の解説~北越戦争で散った松陰の弟子

資料=会津戊辰戦争写真集
時山直八の碑(船岡公園 小千谷市稲荷町)

時山直八の碑

〈前線基地の会津藩守備陣営撃破される〉

村人の道案内によって霧の中、西軍(長州藩)は進軍し朝日山の前線に守備する会津藩陣営に激しい銃撃をしながら攻め登ってきた。それも散開しての攻撃であったため、会津藩は三方面からの攻撃と思い反撃するが猛射され、いったん寺沢村(約1キロ)まで退いてしまった。どうして朝日山本営をめざさなかったのか、それとも方向を間違ったのか、分からない所である。

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白虎隊士新国英之助が即死した地。2003年10月28日撮影

白虎隊士新国英之助が即死した地

同上の地から僅かな距離に建つ墓。会津藩士と伝わっている。

東軍兵士の墓

朝日山から三仏生を望む

朝日山から三仏生を望む

会津藩が陣営した所から長岡方面を望む
会津藩陣営k所から長岡方面を望む

会津藩陣営を攻略した西軍は、会津藩が反撃しながら退却しているように思わせるように反対方向(山頂の反対)に空砲しながら進軍したと思われる。しかし、霧のため道を失い進軍したらしいが偶然にも山頂近くの同盟軍陣地前に出る結果を得たという。

〈朝日山頂の道〉

仮参謀時山直八の戦死は西軍に大きな動揺を生んだ。いっせいに敗走となる。勢いを得た同盟軍は一挙に追撃し勝利となった。この時西軍の新式銃(元込め)も多数分捕ったという。時山の遺体は他の奇兵隊士の戦死者と共に五月二十一日まで戦場に残されていたという。

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一方、同盟軍にも会津藩士の戦死者が多かった。現在朝日山に建つ東軍の墓は殆ど会津藩と伝わっている。長岡藩士安田隊で戦死者六名と桑名藩戦死者三名、負傷者六名であったという。

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西軍の急襲に会津藩伴百悦があわてて退却しようとした山頂への道である。

朝日山山頂への道

〈鬼倉山〉

〈説明文〉
西南方向、鬼倉山は官軍の陣地で塹壕あり。落下傘を世界で最初に用いたのは、この鬼倉山で官軍が敗走の際、断崖から唐傘をひろげて飛びおりたと伝えられており、これが起源とされている。

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噂のような話が伝わっている。唐傘を携帯していたのは、雨の多い日が続いた戊辰戦争であったことから考えられるが、断崖から飛び降りるには唐傘では無理があると思われるが、それだけ同盟軍の攻撃が激しかったともいえる。

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一方、薩摩藩の侵攻軍は、同盟軍の攻撃に進軍が遅れ、長州勢敗走に朝日山mで達しないまま退却している。当初薩摩藩は守備の手薄な東側から攻撃し攻め登った。一時は山頂近くまで肉迫したが、長州勢敗走の報せを受けると急ぎ山を下り、攻撃開始地点まで戻ったという。死傷者も殆んどなかったという。

鬼倉山

〈朝日山頂の墓〉

五月十六日(7月5日)、十七日朝日山、榎峠での砲撃戦が相変わらず続いた。

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西軍は海道軍からも増援部隊が着陣し小千谷本営から出陣し砲撃にも加わるが進展が見られず膠着状態が続いた。

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一方、同盟軍は限られた守備陣であったが善く守り、西軍の登頂侵攻への警戒も怠りなく奮戦していた。

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信濃川を挟んだ西軍三仏生の砲陣も連日攻撃するが、同盟軍の士気は衰えず、砲撃の反撃も激しく続いた。西軍は次第に榎峠からの長岡城攻略に焦りと無理である事を考え始めていた。海道軍参謀黒田清隆(薩摩藩)も山道軍の本営(小千谷陣屋)に参り会津侵攻が遅れる事に新たな作戦の軍議が持たれた。

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金倉山方面を背にして同盟軍の墓が建つ。

朝日山山頂の墓

五月十八日(7月7日)寺沢に守備する会津藩萱野右兵衛率いる諸隊の片桐喜八隊は、衝鋒隊が守備する朝日山方面(薩摩藩が十三日進軍)に出陣し援護する。

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衝鋒隊も十三日の西軍の倉庫劇に際して、一歩も引かぬ反撃を開始し西軍薩摩藩の全身を阻止していたのである。

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衝鋒隊は歴戦の勇者揃いの隊である。砲弾飛来する中、堅固な胸壁を構築し激しい銃撃、砲撃を展開していた。

朝日山山頂の墓

朝日山山頂の墓

朝日山の頂にドーム状の塁を築き、またフランス式胸壁、砲台を構築して砲撃していた同盟軍だが何故か東軍の戦死墓が多くある。

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北越戊辰戦争が終わっても特に会津藩士の遺体埋葬の許可は西軍からは許可されなかったという。

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浦柄村の村民による建立であるこれらの墓は名はなく戒名のみの小さな墓であった。

朝日山山頂の墓

朝日山山頂の墓

〈大平木観音様の由来〉(朝日山頂き)

大平木観音様の由来

西軍は昨日の総攻撃が失敗、多数の犠牲を出したが、三仏生、横渡からの激しい砲撃を展開する。五月十四日(7月3日)早朝からの砲撃戦が繰りひろげられる。同盟軍は朝日川を挟んで布陣する尾張藩らを山頂から砲撃、一旦退かせるが夕刻より増援があり再び進軍、反撃を行う。夜遅くまで砲戦が続いた。

朝日山山頂の墓

〈連日、砲撃戦続く〉

昨日の西軍の総攻撃に失態を演じたと言われる会津藩萱野右兵衛隊は、桑名藩立見鑑三郎に心証を悪くしたのだろう。会津藩が守備する場所を桑名藩が行う事となり、朝日山のふもとの寺沢村の守備となり転陣している。

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この事は榎峠に布陣する陣営にも伝わり、同盟軍本営にも達したのだろう。会津藩佐川官兵衛は交代の出陣を決し朱雀二番寄合組を出陣させた。この日は六日市に宿陣となったが、翌日には朝日山に着陣し昼夜の砲戦を行うことになる。

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一方、寺沢に転陣した萱野右兵衛の陣営、榎峠、朝日山を会津藩越後口総督一瀬要人は激励も兼ね巡視したという。朝日山に布陣する会津藩浮撃隊は勇敢な戦いを展開している。

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五月十五日(7月4日)西軍は横渡まで布陣が後退していたが、信濃川対岸の三仏生の砲陣(松代藩ら)と連携し榎峠、朝日山への砲撃を繰り返し行った。一日、砲一門につき百五十発以上の発射を命じたという。西軍の弾薬等々の補強はかなりのもので連日続いた。

朝日山の戦い

〈同盟軍の陣営跡=山頂〉

十二日、朝より雨の中、砲撃戦が展開された。一方、前面(南側)に守備陣形する会津藩は、朝霧が晴れ始める頃、麓より蓑傘を着た人足数に見せかけた一隊が登ってくるのを発見、西軍と見破り胸壁に守備に付き銃撃する。西軍は四方に散会して登ってくる。ついに白兵戦を展開し槍なら会津藩の得意とする所、また白刃も劣らぬ腕である。胸壁を飛び出して凄まじい斬りあいとなり、軍旗を持つ先頭の者を斬り、首級を上げる。ついに西軍総崩れとなっていった。

同盟軍の陣営

今は雑木林が繁っているが現在立つ木の下は塹壕跡といわれている。砲台も置かれていたという。

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朝日山登山道入り口にある案内板
朝日山登山道入り口にある案内板

〈朝日山から小千谷方面を望む〉

薩摩藩が攻めてきた方向である。

朝日山から小千谷方面を望む

長州藩が攻めてきた方面である。

朝日山から小千谷方面を望む

この日も朝から霧が発生していたという。信濃川の水蒸気が朝方急冷され発生する川霧であるという。日が照ると気温が上昇しすぐ晴れ上がるという。

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西軍仮参謀時山直八は未明に出陣し、朝日山の南側支稜にある標高二百六十二メートルの高地より攻め登った。まず、会津藩萱野右兵衛(鎮将隊=水原陣屋の陣将)らが守備する陣営(スミヤ山)を攻略する。まだ霧が晴れない時刻であり、朝食前の時間であった。戦いに慣れた長州奇兵隊に追いまくられ寺沢村へ敗走してしまう。

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この時、白虎隊士新国英之助と辰野平太が銃弾により即死する。約二百人の守備陣の萱野だが、どうも勇戦奮戦することなく、退いてしまうようである。後に再び朝日山に至り同盟軍に合流している。

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前線基地を破った西軍は、しかし、道案内の村人が霧のため道に迷い山頂近くに至った時は本隊=同盟軍が守備する前面に出てしまった。

〈朝日山古戦場資料館〉

朝日山の頂に展望台があり、その展望台内に展示されている。(無人の資料館)

朝日山古戦場資料館

五月十八日(7月7日)西軍の砲撃は少し緩んだように感じられるが、やはり早朝から開始された。一方、同盟軍は西軍が作戦変更の軍議が行われている事など露程も知らず、榎峠、朝日山の砲撃で応戦していた。しかし、十六日に長岡城に近い草生津の砲台が砲撃され三仏生より更に先の草生津まで西軍が信濃川沿いに北上している事を知らされたのである。

司馬遼太郎「峠」の文学碑

朝日山古戦場資料館

 

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