〈足利事件〉〈姉小路事件〉

〈足利事件〉
守護職就任から二か月も経たない文久三年(1863年)二月二十三日この事件が起きた。「等持院」に飾られていた足利将軍三代の木造の人形を切って位牌と共に、三条大橋畔に晒した。
「鎌倉以来、源氏、北条、幕府は不忠不臣の行い多く足利にいたっては罪悪実に容るべからず、天地神人ともに誅するところなり」という書状も添えられていたという。松平容保は、この書状は明らかに幕府政治を否定し、足利将軍を徳川将軍に擬していると判断した。町奉行所に犯人逮捕を命じる共に、今までの奉行所の浪士取り締りの対応では無理と判断し、賊一人に対して上士二人、下士二人、足軽三人を配置させ、奉行所の与力同心と共に逮捕に向かわせた。二月二十六日の夜半、諸隊は黒谷を発し一隊は祇園新地の妓桜奈良屋、一隊は満足稲荷前に出動するが稲荷前には浪士の姿はなく、奈良屋には伊予の浪士三輪田綱一郎、常陸の建部健一郎、陸奥の長沢真古登らと共に「大庭恭平」が居た。捕縛する。また、二条衣棚では江戸の諸岡節斎、信濃の高松趙之助、京都の商人長尾郁三郎らを捕らえた。諸藩への「預け」処分となった。
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会津藩士であった大庭恭平は、維新後、北海道に住む数奇な運命を辿っている。
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さらに、「姉小路公知」の暗殺事件が起こったのである。

〈禁裏・猿ヶ辻周辺〉〈姉小路事件〉
文久三年(1863年)五月二十日(午後七時~九時の間)姉小路公知は朝廷を退いて自宅へ帰る途中朔平門(さくへい)付近(猿ヶ辻付近)で襲われた。当時、姉小路は三条実美と公卿を牛耳る双璧と言われ、攘夷先鋒であった。
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襲ったのは刺客は三人といわれる。従者がいたが、太刀を持ったまま逃げてしまったという。吉村右京はそれでも刺客に立ち向かったが忽ち斬り殺されたという。
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急を聞いて駆けつけた人たちに自宅へ運び込まれた姉小路は間もなく絶命した。
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(上)猿ヶ辻周辺(1969年3月23日撮影)
(下)朔平門。左側へ向かうと猿ヶ辻である。(2004年4月28日撮影)
姉小路公知が殺害された現場に、太刀一振と下駄が残っていたという。その刀は薩摩藩士の多くが佩用する、柄頭に「藤原」縁に「鎮英」の文字が嵌め込まれているもの、下駄の作りも矢張り薩摩藩士が好んで履くものであったという。土佐脱藩浪士那須信吾がこの刀は薩摩藩士田中新兵衛のものであるという。田中新兵衛は二十二歳であったが剣の腕は無難に強かった。また文久二年(1862年)のテロには殆んど加わっていた、「人斬り新兵衛」の異名がつく程であった。本人は祇園で酒を飲んでいる間に刀を盗まれたと言っている。暗殺する者が、太刀と下駄などを残していくものだろうか、疑問が残るが当時、諸藩の有志が姉小路家の菩提寺・清浄華院で協議し田中新兵衛の仕業と結論したという。御所築地内で起った暗殺であり、公卿が被害者ということから事件はいつものテロで事はすまないことになった。取り調べの最中、刀を本人のものか確認しようと差し出すといきなりその刀で自ら自分の身に二度突き刺し自刃したという。しかし、この事から薩摩藩は禁門の一つ乾門の警備を外され、藩士の九門の中に入るのも禁止され、表舞台から身を引くような立場になった。
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また、守護職として松平容保は以前から御築地内に兵力を配置させて欲しい旨を何度も申し入れていたが、許可されなかったが、この「姉小路殺害」事件を機に、九門内の駐留は認められるようになった。
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この事件の一ヶ月前、将軍が大阪湾の海防視察時、姉小路も同行し幕府艦に同船し、勝海舟から説明を受けた。その時「攘夷」の「おろかさ」を聞かされて、攘夷の急先鋒であった姉小路が考え方が変説したと見られ殺害されたともいわれている。言述の多い事件である。
姉小路公知斬殺。犯人はほんとうに田中新兵衛なのか~猿ヶ辻の変の真相
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