幕末の江戸情勢

江戸城会津戊辰戦争(弐-二)

江戸残留の会津藩士と新撰組動向

幕末の江戸情勢

 

〈はじめに〉

この会津戊辰戦争(弐-二)は江戸の史跡を中心にまとめる。年代も多少まちまちになるが—。

〈江戸城〉

幕末の江戸は百二十万人の都市であった。

士族五十五万人

神官・僧侶十万人

市民 五十五万人

士族の中には諸藩の人員も含まれていると思われる。

1971年5月12日撮影

江戸城

資料=広報まつど(松戸市)1999年10月1日

戸定歴史館・特別展 幕末徳川の城

広報まつど戸定歴史館特別展

幕末—どの年代から呼ぶのか諸説がある。私は嘉永六年(1853年)六月三日。アメリカ・ペリー艦隊が浦賀に現れた日からと思っている。

〈「ペリー艦隊」浦賀に現れる〉

それまでも幕府の施策が米中心の経済に破綻をきたしている情況はあるが、徳川幕府創立以来、鎖国政策を続けてきたが、その間欧米諸国ではめざましい産業・文明の進展があり、日本は近代的なものに聞き、触れるのは極く僅かな階級の武士であったのである。

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士農工商制度も商工士農の内実であり、武士階級は借金に追われる実情であった。幕藩体制と呼ばれる巨大構造物も、政治の弛緩や百姓一揆などによる社会の動揺・変化は、すでに現れていたが、はっきりと一人一人が認識していたわけではなかった。

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ペリーの来航は、それまで潜在していた内政・外交の弱点が露呈し、現状のままでは太刀打ちできないものをはっきりと認識されだしたのである。一方、欧米列強国も自国だけでは経済の発展にかげりを感じ、ロシア以外の未開発国のアジア進出をめざしていたのである。

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それまで、唯一オランダと長崎の出島に於いて諸外国の情勢、産業の発展を聞き、学んではいたが、全く新しい諸国の出現は、海に囲まれた日本は大きく後れをとっていたのである。島国でありながら、幕府の大型船製造禁止令によって、技術も後れ、蒸気で航走する艦の出現は驚きと恐怖を感じた。

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蘭学から外国の技術・進歩は学んでも、国内では一般市民には程遠いものであったのであろう。

〈諸外国との交渉に活躍した幕閣人物たち〉

資料=朝日新聞1998年8月25日付

安政五年日英交渉秘話

安政五年、日英修好通商条約が結ばれた日、交渉にあたった徳川幕府の武士7人を英国使節団が撮影した写真

最古の江戸、英で発見

しかし、武士階級にも蘭学から学ぶ諸外国の様相に、いち早く取り入れようとする者もあった。さらに草奔の士からも、幕政の矛盾に気づき始める者も出始める。まさにペリー来航は、日本にとって重要な局面を迎えたのである。

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和親条約、通商条約へと流れが移行すると、幕府も門閥にこだわってはいられない状況となり、下級武士等々からも人材の登用を行うのである。多彩な俊秀が抜擢されていく。因みに筒井政憲(まさのり)、大久保一翁(いちおう)、川路聖謨(としあきら)、岩瀬忠震(ただなり)、勝海舟。永井尚志(なおむね)等々である。また幕臣にも小栗上野介のような人物が傑出してくるのである。

〈幕臣・永井尚志〉

小栗上野介

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一方、幕府は武にも力を入れ、講武所を設け、さらに海軍伝習所をつくり、また、それまで禁止していた諸外国の書も認め、番所調書を設置し、財政・外交面にも力を入れ始める。また、台場の築造、蝦夷地に五稜郭などをやがて築造するのである。新しい知識の吸収と海防の充実強化をめざし、大型船の製造、外国船の輸入も許可していくのである。

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しかし、一気には解決できるものではなかった。紆余曲折があった。さらに幕政に対する不満、天皇(朝廷)の政事介入・強化等々から、いわゆる尊攘派、佐幕派と二つの大きな対抗の潮流が生まれてくるのである。

〈横井小楠〉

横井小楠は、幕末期に於ける傑物の一人であり、その見識は広く知れ渡り、西郷隆盛、勝海舟らに大きな影響を与えたといわれている。

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恥ずかしながら私はまだ一度も横井小楠に関する書物を手にしていない。いつかじっくりと読破したいと思っている。

横井小楠

横井小楠遺構

横井小楠遺構

 

横井小楠

日露通称拒んだ幕府に圧力を

日露通称拒んだ幕府に圧力を

 

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