〈「坂下門外の変」起こる〉

坂下門会津戊辰戦争(壱-一)
〈皇女「和宮」の降嫁〉

〈「坂下門外の変」起こる〉

 

「井伊大老」が殺害され、安藤信正が老中となり、幕政安定のために諸施策を次々と打ち出していった。しかし、「堀田正睦老中」時に「日米和親条約」を朝廷に報告した事が、朝廷の政治的地位を からしめる結果となった。その事が次第に「尊王攘夷」の声が起こり始め、「安政の大獄」で力でそれらを押さえつけた井伊大老殺害となり、また安藤信正は「公武合体」をめざし、皇妹「和宮」の降嫁を実現させた。その事が「尊王攘夷派・志士」らの憤激をさそい、「文久二年(1862年)一月十五日(2月13日)坂下門外に於いて安藤信正が襲撃される事変が起ったのである。

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安藤信正は軽傷であったが、四月に罷免され、片腕であった久世広周も六月に病気を理由に退任したのである。

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「坂下門外の変」も水戸脱藩士、宇都宮脱藩士の大橋訥庵(とつあん=儒者)とその門下生(武士)豪農・豪商などの「草莽(そうもう)の獅子」らも含まれており、攘夷運動が市民有志まで拡大していたのである。

坂下門外の変

安藤信正が襲われる前々の年(万延元年)の十二月には、「米国公使・通弁官」のヒュースケンが江戸で殺害され、文久元年(1861年)五月には「英国仮公使館」が襲撃され、文久二年一月に「坂下門外の変」へとなってきたのである。

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この間、脱藩浪士も増え、「尊王攘夷」を唱え、諸外国の情勢に疎い公卿に取り入り、攘夷を唱え、孝明天皇の「異人嫌い」を利用し、幕府へ「攘夷」を迫る活動が活発になっていた。京洛には「天誅」と称する「テロ・暗殺」が頻繁に起きていた。四月八日には土佐藩参政・吉田東洋が「土佐勤皇党」によって城下にて暗殺されている。

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「土佐勤皇党」は藩士武市半太が首領であった。出羽の郷士清川八郎、長州藩士桂小五郎等々も「倒幕」を意図した「尊攘」運動に奔走していた。

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そんな情況の中、薩摩藩主島津久光(外様大名・公武合体派)は一千名の藩兵を率いて上洛し、「幕政改革」に関する意見書を朝廷に提出したのである。「倒幕」の意志はなかったといわれ、「体制改革路線」を明確にし、孝明天皇の趣意にも合致したと伝わる。しかし、藩内では二つの意見に分かれ「寺田屋騒動」を起こしている。

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島津久光は「三事策」

(1)将軍が上洛し(諸大名を率いて)治国攘夷を する

(2)沿海の五大藩を五大老とし、国政にたずさわらせ、海防を厳にする

(3)一橋慶喜を将軍補佐役にし、松平慶永を大老職に任じ補佐させる

を「勅者」として、公卿大原重徳を「勅使」として、島津久光はその護衛として江戸に出立させた。「勅使」は六月十日、江戸城に入城し、将軍家茂に拝謁し「三事策」を伝達したのである。この時、幕府は「勅使」を冷たく扱ったといわれる。

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島津久光は帰途、神奈川・生麦村で行列を横断した外人(イギリス人)を無礼打ちにし、「生麦事件」をひきおこし、「薩英戦争」まですることになっていく。

〈薩摩藩の「寺田屋騒動」〉

 

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コメント

  1. 会津親父会津親父 より:

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