〈佐倉藩・武家屋敷跡〉
「旧河宗宅跡」
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〈宮小路(旧鏑木小路)の武家屋敷通り〉
近世の初め(慶長~元和)初代佐倉城主土井利勝が鹿島台に築城し、東方に城下町を配した。武家屋敷は城内および城外の地元で尾余(びよう)と呼ぶ台地の先端部に屋敷割されていた。ここ宮小路の武家屋敷は、なかでも往時のおもかげがよく残っている所で、通りに面したところに土手を築き、その上に生け垣をめぐらせている。これは馬上から屋敷内を覗かれないようにするためと伝えられている。屋敷内には小さな畑があり、うしろは急な崖でシイ・竹が生い茂り緑に包まれた、たたずまいとなっている。
【佐倉武家屋敷】 (旧河原家住宅・旧但馬家住宅・旧武居家住宅)

〈武家屋敷通り〉
この地は、江戸時代、鏑木小路と呼ばれ、家老若林家をはじめ、佐倉藩政を支えた上・中級武士の屋敷が立ち並んでいた武家屋敷町である。生活様式の変化により、屋敷の大半は取り壊されたがわずかに残された土塁・生け垣・そして敷地の境界に植えられている大樹の茂みに、当時の面影をしのぶことができる。


〈修静居跡〉〈西村茂樹邸跡〉
〈西村茂樹の略譜〉
文政十一年(1828年)三月十二日に江戸辰の口(和田倉門外=会津藩上屋敷の前に当たる)の佐倉藩邸に生まれ、幼きより出藍の誉れ高く、儒学を学び(洋学・砲術=佐久間象山に学び)二十六歳の時、支藩佐野藩主付人となったが、佐倉藩主堀田正睦が外交専門の閣老となるに及んで、その補佐役として退任を果たす。明治二年(1869)に佐倉藩大参事となり、同四年廃藩置県に際し、印旛県参事となり同五年三月に職を辞し、ここ宮小路の住居の書斎を修静居と名付け、校正万国史略十冊を編纂した。同年十月、東京に出て翌六年に森有礼、福沢諭吉らと明六社を起こし明治九年には東京修身学社を創立し、伝統的日本道徳道徳論を強調した。また官職においては宮内省文部大臣等々を歴任し、貴族院議員もやった。東京において七十五歳で没した。

※正月早々であったが、「会津戊辰戦争」とは直接の関わりはないが、倅と共に(案内で)「佐倉」を訪ねた。正月のため「公共関係」の館・図書館は皆休館とは知りながらも「開国」への道筋をつくった「堀田正睦」の史跡をめぐってみようと出かけた。
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寺々は正月のせいだろう「七福神」めぐりの方々が遠くから出かけてきた方々が多く見受けられた。「城下町佐倉・歴史生活資料館」が「佐倉七福神」めぐりのパンフや「甘酒」を振るまい開業していた。狭い建物であったが、皆温かく迎えてくれ、「佐倉城址」のパンフ等々を戴いて後にした。

〈大聖院〉〈佐倉藩・刀工の細川忠義の墓〉
※武家屋敷通りの奥にある寺であった。墓参りはしなかったが、案内板だけとした。若いカップルが親と共に「七福神参拝」に訪れてきた。

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