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会津戊辰戦争(参-壱)

〈北越〉衝鉾隊・三国・小出島・鯨波の戦い・長岡藩参戦

会津戊辰戦争(参-壱)

長岡藩家老河井継之助、小千谷会談決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

小千谷の慈眼寺で新政府軍軍監岩村精一郎らと会談したが、その非道な取り扱いを相談するためでもあった。川島は開戦することに反対したが、熟議の末、長岡藩は抗戦することになった。二人はこの地から同行して摂田屋の本陣に向かい諸隊長を前に開戦の決意を述べるに至った。
2022.08.18
会津戊辰戦争(参-壱)

片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺

五月三日(6月22日)正式に二十五藩による奥羽列藩同盟が仙台領白石に於いて成立した。越後では、前日長岡藩家老河井継之助と西軍・山道軍岩村精一郎の会談」が行われ、決裂していた。そんな情況の中、西軍が片見に侵攻し、会津藩との戦いが展開されたのである。
2022.05.05
会津戊辰戦争(参-壱)

会津藩長岡藩との同盟不成立、衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

長岡藩家老河井継之助との面談で長岡藩領内からの退去を求められた会津藩佐川官兵衛らは信濃川を挟んだ与板藩城下へ入り滞陣を続けている。一方、西軍山道軍は小千谷陣屋に入り滞陣、海道軍も柏崎へ入り海岸沿いを北上。武装中立を貫く長岡城周辺に次第に戦雲が垂れ込めてきていた。
2022.03.24
会津戊辰戦争(参-壱)

桑名藩主松平定敬の動向と鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍

高田城を発した西軍は日本海沿いを北上、桑名藩領柏崎に迫った。桑名藩は鯨波に防御線を張った。鯨波は柏崎への通過点で海岸に断崖が落ち込む要地だった。午前四時、暴風雨の中戦闘は長州・薩摩藩兵の突撃が始まった。これに高田・加賀・畠山藩兵が続いたが、桑名藩士立見鑑三郎の活躍により西軍を撤退させている。
2022.03.21
会津戊辰戦争(参-壱)

会津藩諸隊小千谷へ集結、雪峠の戦い、小出島の戦い

真人村近くまで追撃すると本隊が布陣しているのが望見でき芋坂へ戻った。西軍の本隊は山道軍の本隊で薩摩・長州・尾張・大垣藩のほか、信州の諸藩合わせて十二藩の軍勢で六千~八千名といわれる大部隊であったという。
2022.03.13
会津戊辰戦争(参-壱)

佐川官兵衛の出陣と三国峠の戦い

三国峠に守備する会津藩町野源之助隊、援軍の池上武助隊は西軍の激しい砲銃撃に屈せず、奮戦に次ぐ奮戦を展開した。町野隊長の弟は槍を振って突進し敵中を突破し前橋藩隊長八木始の目前まで進むが銃弾を浴び戦死する。激戦を繰り広げたが多数に無勢、ついに峠の権現社まで引き上げた。
2022.05.17
会津戊辰戦争(参-壱)

会津藩の越後方面での布陣と偽名西郷蔵之進の借用金事件

会津若松城では会津救解のための奥羽諸藩連盟「嘆願書」が西軍総督府参謀世良修蔵に却下され、再び会津追討の命令に諸藩は逆にそのために出陣した藩の出兵の解除を求め、列藩同盟成立へ向けて大きく進み始めた事を受け、西軍との一戦に決し、藩境防備陣の出陣を決定していくのである
2023.01.07
会津戊辰戦争(参-壱)

飯山藩の裏切り、衝鋒隊敗北、酒屋陣屋まで撤退

まさか飯山藩と戦っていると考えもつかなかった事が眼前に展開されているに驚くが、合流して落城させようと戦いに加わった。教導役として同行していた飯山藩兵は事の意外なるさを知り驚き、隊を乱して遁走した。
2022.02.28
会津戊辰戦争(参-壱)

新潟治安維持にむけ越後同盟成立す

四月四日(4月26日)長岡藩河井継之助は村上、新発田、黒川、三根山、村松の諸藩の重臣を集結し、新潟港を含む新潟の治安等々に協議し、その結果を持って衝鋒隊総督古屋に面談し、越後六藩同盟を伝え、新潟の治安を維持することになった。
2022.12.25
会津戊辰戦争(参-壱)

会津藩藩境防備体制強化、越後方面への出陣

三月十五日新発田藩前藩主溝口直溥が帰国のため会津若松城下へ止宿していた。その宿へ家老西郷頼母が訪ね、(1)新発田藩の京都出兵(2)藩内の薩摩・長州人の潜伏などを責め、激論となった。その結果、西郷頼母は新発田藩の真意に疑念を持ち関門の警備を伝えたのである。
2022.05.02
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