会津戊辰戦争(弐-三)

会津若松城動向

軍制改革・客将来援

会津戊辰戦争(弐-三)

桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向

磐城方面で同盟軍と共に西軍と戦いを展開するが、泉・湯長谷藩が落城し、平藩が七月十三日(8月3日)ついに落城し七月二十三日に会津若松に入ったのである。八月五日(9月20日)請西藩主林忠崇ら一行は会津に在った仙台藩士国分平蔵の案内で若松を出立する。
2022.05.11
会津戊辰戦争(弐-三)

棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡

西軍は軍監三好軍太郎(長州藩)に一隊を率いさせ、大雨で水嵩が増している信濃川を渡河し「中島」に上陸、長岡城下へ奇襲攻撃をかけ「朝日山」方面に主力を出陣させていた長岡藩筆頭家老河井継之助はがドリング砲を持って馳けつけ反撃するが,ついに「落城」した
2021.12.10
会津戊辰戦争(弐-三)

旧幕典医の松本良順と旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ

旧幕典医の松本良順が若松城下に入ったのは江戸城明け渡しの前後の頃であったと思われる。会津に入ってからは「日新館」に滞在し、医学の指導をするかたわら、負傷者が送られてくるとその治療に当たった。新選組土方歳三も足に負傷し治療を受けている。
2021.12.05
会津戊辰戦争(弐-三)

会津若松で奮闘した土方歳三

閏四月五日(5月26日)白河方面への出陣が命じられるまでの間、土方歳三は天寧寺住職と共に松平容保に拝謁し、近藤勇の墓建立を願い出て戒名を書いてもらったという。また、五日の前日、隊士一同を率い、容保に拝謁し歓迎の宴を受けたとも伝わる。
2022.04.24
会津戊辰戦争(弐-三)

旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

会津藩士が帰国を開始した三月三日(3月26日)、小笠原長行は江戸諸藩士十数人を率いて江戸を脱し、元領地であった棚倉へ向かった。奥羽諸藩の「会津救解」の動きを知ったのか、小笠原は棚倉を出て若松へ向かった。
2021.11.27
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩四藩境への防備体制強化

三月十二日(4月4日)「藩四境防備体制」を改めた。(1)津川(越後口)木村隊、諏訪隊(2)浜崎(  )堀隊、蜷川隊(3)三代(白河口方面)横山隊、鈴木隊(4)田島(日光口方面)原隊、有賀隊、さらに「軍事方」は周辺各地に「鎮撫隊」の派遣を通告した。
2021.11.23
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル

会津藩がスネル兄(ヘンリイ)弟(エドワード)を知ったのは、近代的武器購入に際して家老梶原平馬が横浜に赴く時、長岡藩家老河井継之助を通じて知った。梶原平馬はスネル(ヘンリイ)に会津藩の軍事顧問を依頼、承諾を得る。名を「平松武兵衛(武平)」と改め会津城下に居住する。
2022.05.11
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩と新発田藩の関係

前藩主溝口直溥が会津城下を通過するため入ってきたのである。鳥羽伏見の戦いにも出兵させず、また薩摩・長州藩士を潜伏させているとの風聞、京都に於ける新発田藩の行動に対して、その疑念、不満が積もり積もっていたのか、会津藩家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門は、宿を訪ね二日間に亘って激論をたたかわした。
2022.05.02
会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

松平容保は「恭順謹慎」を朝廷に届け出ていたが、朝廷を牛耳る薩摩・長州藩の参議らは奥州諸藩に「会津追討」の命を発し「北陸道」「東山通」「東海道」「奥羽」への鎮撫隊を出動させていた。西軍の侵攻が強化される中では、「武備」もやむを得なかったといえる。
2022.05.11
会津戊辰戦争(弐-三)

松平容保会津鶴ヶ城へ帰国する

松平容保が万延元年(1860年)に江戸に出府してから「八年ぶり」の帰国であった。江戸から会津若松までおよそ六十五里(約260㎞)であるという。随行する「先備(さきぞなえ)隊」(頭=千葉権助)約十七名が容保と共に会津へ向かい六日間で到着したのである。
2021.11.03
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