
〈「幕政改革」なる〉
朝廷は改革の中で「攘夷実行」の「勅者」を守ることを表明したことを知り、直ちに「三条実美」を「勅使」として江戸に出立させ、実行の督促をした。この時、前回の「勅使」の待遇等々に不備があった事を知った。会津藩主松平容保は幕府にその「改善」を上呈し、実行させている。

〈生麦事件起きる〉
生麦事件犠牲者の生前の姿

〈薩摩藩の「寺田屋騒動」〉
精忠組は藩主上洛を知り伏見に入った。藩主は「公武合体」の推進のための「上洛」と知り、上洛し討幕の狼火を上げようと決意し、京へ向かんとする所に、藩主の意を受けた藩士らが訪れ「決起」を「軽挙な暴発は止めよ」と説得するも成らず「藩命」と言っても説き伏せる事がかなわず、ついに藩士同士の「斬り合い」となった。

〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉〈江戸「本行寺」〉
松平容保は、「開国」には賛成の立場であった。但し、幕府の威権は維持する考えであった。「戊午の密勅」で紛糾する幕閣の中にあって、徳川御三家の水戸藩の問罪を推し進める事は、国乱の元になると、その中止を建言し、一躍「溜間詰」の諸大名の注目の的となった。

〈井伊直弼、「大老」となる〉
井伊大老は「朝廷」や「幕府」が、諸大名の意見に左右されるようになっては、国家の大乱を招く―の強い信念の下に、絶対の自信の下に「独断専制」を実行した

〈佐倉藩・武家屋敷跡〉
正月早々であったが、「会津戊辰戦争」とは直接の関わりはないが、倅と共に(案内で)「佐倉」を訪ねた。正月のため「公共関係」の館・図書館は皆休館とは知りながらも「開国」への道筋をつくった「堀田正睦」の史跡をめぐってみようと出かけた

〈佐倉順天堂跡〉〈順天堂記念館〉
順天堂は、長崎に遊学後、江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾である。ここではオランダ医学書を基礎とした、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集した

〈甚大寺=堀田正睦の墓〉
安政二年(1855)老中首座となり、諸外国からの開国要求という難局に当たって、日本を開国へ導く大役を果たした。しかし、十三代将軍家定の継嗣問題で大老の井伊直弼と対立し、安政六年(1859)隠居を命じられ、さらに開国を罪とし蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒した。

〈旧堀田邸〉
旧掘田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園。主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟瓦葺きの建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工した

〈堀田正睦銅像〉〈佐倉城趾〉
日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、文化八年(1810年)八月一日に生まれ、文政八年(1825)に佐倉藩主となった。天保四年(1833)に藩政改革を宣言し、文武の翼励によって藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成した。