会津戊辰戦争(壱-二)

会津戊辰戦争(壱-二)会津戊辰戦争(壱-二)

京都守護職時代
蛤御門の変
薩長同盟

京都守護職時代

〈公武合体派、奮闘する〉〈長州征伐へ〉

幕府は十五代将軍に「将軍後見職」の一橋慶喜を十五代将軍に立て、軍制改革を進め、新選組を幕臣に取り立てるなど巻き返しを図るが、薩長同盟を中心とする討幕派の動きは止めようがなく「武力倒幕」の密計も進められていた。そして松平容保守護職、最大の信頼者であった「孝明天皇」が十二月二十五日(1月30日)突然亡くなった。
2021.10.02
京都守護職時代

〈六角獄舎跡=平野国臣らが入獄〉

1969年(昭和44年)に訪ねた。壬生屯所からそう遠くない三条通りの近くに在った。今は「感化保護院」となっているとの事で、内部の案内はできないとの事であったが、後日「幕末」時の貴重な資料を送って戴いた。
2022.06.02
京都守護職時代

蛤御門の変

元治元年七月十九日、長州兵三方面から発して御所を目標に進んだが、福原越後の伏見勢は北上して藤ケ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組にたたかれてアッケなく敗走、国司信濃の天龍寺軍は一挙に御所の西側をついたが、会津・薩摩兵のため蛤御門から撃退され、益田右衛門之介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら越前兵に壊滅させられた。
2022.08.18
京都守護職時代

〈池田屋騒動〉〈明保野事件〉

踏み込まれた時、何故、とっさに逃げ出したのか謎であるが「八・一八の政変」の直前に会津藩と同盟を結んだ土佐藩である。新選組であっても、突然の逃避は疑いを誘うものであろう。しかし、槍を突き出したのが会津藩士と知り、土佐藩士と名乗ったというのがそれも不思議である。しかし、その後の麻田も武士としての行動をとっている。
2022.06.02
京都守護職時代

〈守護職屋敷建つ〉〈屋敷門〉

「姉小路」事件、八・一八の政変と続く中、容保は再三禁裏に兵の常駐を提案するも三条実美らの反対に実現できなかったが、八・一八以後ようやくその提言が取り入られ「お花畑=凝華洞」に兵営が建てられ御所の西側には広大な「守護職屋敷」が建てられた。
2022.06.02
京都守護職時代

新撰組誕生 八・一八の政変 禁門の政変

堺町門守衛の長州藩は門外で所司代の兵が守る門内と対峙し攘夷派浪士も長州藩と共にいた。双方大砲や銃砲隊まで配備しての対峙である。この時、会津藩は国元から交代で率いる藩兵が帰国に向かうが引き戻しており藩兵二千名が禁裏の守衛に当たっていた。ついに「勅命に背けば朝敵になる」と、長州藩総大将の家老益田右衛門介は退却を決断する。
2022.03.30
京都守護職時代

天誅組

文久三年(1863年)八月十七日、土佐の吉村寅太郎、美川刈谷の松本謙三郎、備前藤本鉄石等、中山前待従忠光をたて大和国に義兵を挙げ天誅組と名づける。この事件では有能なる学識者が憂国の赤誠もむなしく維新鴻業の礎石となったのである。
2022.05.11
京都守護職時代

徳川家茂将軍「上洛」する

松平容保が「入洛」したのが文久二年十二月二十四日「将軍後見職」と成っていた「一橋慶喜」が翌三年一月五日である。東本願寺の「枳殻邸(きこく)」で宿泊する。徳川将軍(家茂)は三月四日入洛した。幕府は将軍上洛の警護に「徴募」し「浪士組」を結成し、将軍より共に京都に入らせ治安の安定を目指した。
2021.12.04
京都守護職時代

佐久間象山・大村益次郎・河上彦斎

佐久間象山は信州松代藩の出身、儒学や朱子学を修め、西洋学の導入で殖産興国をすすめた。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らを輩出。大村益次郎は長州藩出身。医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となった。長州藩の軍事指導者として活躍。その功績から維新後兵部大輔に任命され近代兵制樹立に尽力。
2022.08.18
京都守護職時代

〈足利事件〉〈姉小路事件〉

足利事件と姉小路事件 守護職就任から二か月も経たない文久三年(1863年)二月二十三日この足利事件が起きた。「等持院」に飾られていた足利将軍三代の木造の人形を切って位牌と共に、三条大橋畔に晒した。五月二十日(午後七時~九時の間)姉小路公知は朝廷を退いて自宅へ帰る途中朔平門付近(猿ヶ辻付近)で襲われた。
2022.05.02
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