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会津戊辰戦争(壱-三)

会津戊辰戦争(壱-三)会津戊辰戦争(壱-三)

大政奉還と王政復古・寺田屋
鳥羽伏見の戦い

会津戊辰戦争(壱-三)

〈会津藩、大阪を撤退〉

会津藩士らは負傷者は旧幕軍海軍の軍艦で、他は陸路でそれぞれ江戸をめざすこととなった。その胸中はいか程のものであったろうか。一年おきに交代とあっても文久二年に「京都守護職」の会津藩士として奮闘し、孝明天皇の絶大な信頼を得た会津藩、それが薩長の陰謀によって京を去る思いは無念さで一杯であったと思われる。
2022.03.31
会津戊辰戦争(壱-三)

〈徳川慶喜、秘かに大阪城を脱け出す〉

六日、午後十時頃、突然、松平容保は徳川慶喜より呼び出された。「東帰する、供せよ」との厳命が下されたのである。主戦論者の桑名藩藩主松平定敬も同様であったという。 容保は引き止めようと説得するも慶喜は東帰することを変えなかった。藩士に告げるいとまもなく、大阪城を出ることになってしまっていた。
2022.12.22
会津戊辰戦争(壱-三)

〈鳥羽・伏見の戦い四日目〉

奮戦を続けた幕府陸軍歩兵隊、伝習隊、会津藩、幕臣京都見廻組、桑名藩士、新選組らは疲労と悔しさ等々の入り混じった面持ちでの撤退であったと想像できる。難攻不落といわれた大阪城での一戦をの思いを胸に秘め、また大阪・天保山沖に停泊中の、当時日本随一の海軍があり、共に西軍への攻撃を図れば勝利すると信じていたのである。
2022.05.01
会津戊辰戦争(壱-三)

〈鳥羽・伏見の戦い三日目〉

藩を挙げて軍備・軍制改革・強化をしてきた薩摩・長州・土佐藩中心の西軍。ほぼ互角の装備の幕軍と旧式装備・刀槍主体の東軍では数では多くを上回っていたが、兵器の差が日増しに歴然とする中、更に「錦旗」によって士気高まる西軍との戦いは、激戦を展開するも次第に撤退に次ぐ撤退となっていった。
2022.07.08
会津戊辰戦争(壱-三)

鳥羽・伏見の戦い二日目

一月四日(1月28日)旧幕軍は反撃を開始。しかし、鳥羽方面では次々と薩摩藩兵など西軍は増派による戦力が強まり、午後二時頃幕軍は敗走、少し前の昼頃には伏見方面も劣勢となって退却するも、納所付近に戦場が移ると会津藩は白兵戦を行い勝利するが夕刻になり淀城へ入城し再陣容を立てようとするが、淀藩は城門を堅く閉じ入城を拒絶する
2023.01.01
会津戊辰戦争(壱-三)

〈鳥羽・伏見の戦い一日目〉

一月三日(1月27日)朝、東軍は淀城下を出陣し、先陣が小枝橋に差しかかると布陣していた薩摩藩は「入京」の許可は出ていないと東軍の進軍を阻止せんと延々と押し問答を繰り返していた。午後五時頃「赤池」付近で待機している東軍陣営にこの秋ノ山から突然薩摩藩は砲撃する
2022.05.01
会津戊辰戦争(壱-三)

薩摩邸焼き打ち事件と徳川慶喜上洛

慶喜は「官位」は辞退しても、領地の削減はいま暫くと、その事情を自ら上洛し進言したいと返答している。その際、僅かな供物だけの上洛も了承していたのである。しかし、江戸に於ける薩摩の暴虐ぶりを十二月三十日(1月23日)江戸よりの知らせを聴き、軍を率いての上洛を決意したのである。
2023.01.15
会津戊辰戦争(壱-三)

〈王政復古の大号令〉

用意周到に「討幕」への地盤を固めた上での「小御所での会議」が十二月九日(1868年1月3日)行われ、徳川慶喜の納地・辞官を決め、御所の警備から会津・桑名藩を外した。そして「王政復古」の大号令を布告するのである。
2021.10.10
会津戊辰戦争(壱-三)

〈朝廷に於いて「会議」〉

「いつ」「どのように」「どのような時期」に政権を返上したら「徳川幕府」にとってよいか考えていた徳川慶喜は、土佐藩の「建白書」は渡りに船であったようだ。父は徳川斉昭(幕府御三家)、母は有栖宮織仁の娘・吉子、常に天皇の血筋と徳川の血筋の最高と思っていた慶喜は、政権返上は自分しかいないと思っていたという。
2021.11.27
会津戊辰戦争(壱-三)

〈混迷の幕末〉

元治元年「池田屋騒動」「禁門の変=蛤御門の変」「第一次長州征伐」 慶応元年、長州の「高杉晋作の挙兵」「第二次長州征伐」 慶応二年「薩長同盟」「寺田屋事変」「将軍家茂死去」「坂本龍馬暗殺」「孝明天皇崩御」とつづき 慶応三年「大政の奉還」「王政の復古」と幕府の権威もついに失なった。
2021.10.02
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