江戸城無血開城、大久保利通都内史跡巡り

〈勝海舟・西郷隆盛、会見する〉
鳥羽伏見の戦いに勝った西軍は、慶応四年一月七日(1月31日)早くも朝廷から徳川慶喜・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らの征討の命を発した。さらに一月十日(2月3日)慶喜・容保らを始め、幕閣らに官位剥奪、邸地(京都の)を没収する旨を発令する。一月十五日(2月8日)には、奥羽諸藩に徳川慶喜追討の命を下し、仙台・米沢藩には一月十七日、会津藩追討を命じた。この後にも執拗に命を下す。
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西国諸藩を恭順させると、いよいよ江戸侵攻に乗り出し、また東海道・東山道・中仙道の三方面から進軍する。三月初旬には皆江戸周辺の宿場に至り布陣した。三月十三日(4月5日)幕府全権把握者の勝海舟は、池上本願寺に本陣を置く大総督府参謀西郷隆盛に面談する。この日は和宮の安全を伝え、挨拶程度で帰った。イギリスの出方がまだ掴めていなかったためらしいが、国際法により恭順する者への攻撃は反すると表明、強行すれば治安出動する—–旨を知った勝海舟は、翌十四日、再び今度は薩摩藩邸に於いて西郷と会見する。西郷は徳川慶喜の処分は京に戻って協議の上回答する旨伝え、江戸総攻撃は自分の責任において中止すると答えた。
会見の地碑 1970年4月20日撮影
〈碑文〉
慶応四年三月十四日、この地薩摩邸に於いて、西郷・勝両雄会見し、江戸開城の円満解決を図り、百万の民を戦災より救いたるは、その功誠に大なり。平和を愛する吾、町民深く感銘し、以てこれを奉賛す。
昭和二十九年(1954年)四月三日
勝海舟・西郷隆盛会見の地碑 2010年5月30日撮影
〈徳川家の処分、江戸開城きまる〉
三月十四日(4月6日)の再会見で江戸総攻撃は中止と決まったが、徳川慶喜の処分は、大総督府参謀西郷でも一存では決められない。西郷は全軍に滞陣を命じ、単身江戸を出立し、二十日(4月12日)夕刻京洛に至り、翌日朝廷の三職会議(総裁・議定・参与)を開き、慶喜の処分の評議を行い、慶喜の水戸隠退を認める事に決した。
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四月四日(4月26日)朝廷の勅使橋本実梁・柳原前光と西郷隆盛が江戸城に入り、田安慶盛・大久保一翁らが迎えた。江戸城明け渡しが四月十一日(5月3日)と決まったのである。
資料=日本歴史の旅
西南戦争百年特集 西郷隆盛 (太隊雑誌)
京都・清閑寺 1969年3月22日撮影
〈薩摩藩、幕府に挑発行為をとる〉
大政奉還、王政復古と続き、薩摩藩士西郷隆盛は倒幕の密勅の実行のチャンスが消えたが、あくまでも幕府を武力で討つことを考え、いずれは必要になると脱藩の形を様した伊牟田尚平・益満休之助に命じ、諸藩脱藩者、浪士を集めていた。後に赤報隊を組織する相楽総三ら約五百人の集団となり、御用盗と称し、西郷の意を汲み江戸および周辺の豪商・豪農・幕府役人の邸宅、代官所を連日連夜襲撃させた。なんとか徳川慶喜を挑発し倒幕切っ掛けを作ろうとしての事であった。
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余りの暴行・略奪に幕府は必死に警備するが、慶応三年(1868年十二月二十日頃)その尻尾を掴み薩摩藩邸に赴き、浪士らの引き渡しを求める。しかし、薩摩藩は頑として拒んだ。勝海舟は反対したというが、幕府はついに薩摩藩邸焼き打ちをかけたのである。ここに戊辰戦争の口実とする西郷隆盛は、京都にいたが一報が入ると「わがこと成れり」と手を打って喜んだという。
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翌慶応四年一月三日鳥羽伏見の戦いが勃発するのである。
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因みに戊辰戦争を最後まで戦った庄内藩に対し、西軍・西郷隆盛は寛大な処分で臨み庄内藩の恩を得たという。この焼き打ち事件に対する後ろめたさがあったのだろうか。流罪に等しい会津藩の処罰とは雲泥の差である。
西南の役
資料=朝日新聞2001年11月20日付

西郷隆盛の手紙「帰郷」
西郷隆盛=征韓論者
大久保利通日記表紙
〈大久保利通の墓〉
説明文
幕末・明治時代に前期の政治家。天保元年(1830年)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として鍛冶屋町に生まれた。西郷隆盛とともに公武合体運動、倒幕運動を行い、岩倉具視らとは王政復古を成功させ、維新政府の中枢に参画し、版籍奉還、廃藩置県を行った。しかし、征韓論に反対して内政整備優先を唱え、西郷隆盛らと対立し佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と相次ぐ反政府暴動を鎮圧した。その一方で、地租改正反対一揆には、地租を引き下げて農民を擁護した。板垣退助らと国会開設を準備(大阪会議)するなど、官僚政治家として手腕を振るい、資本主義国家への基礎を築いた。西郷隆盛・木戸孝光とともに明治維新の三傑といわれている。
平成六年(1994年)三月三十一日
青山霊園 2008年12月20日撮影
富国も政権交代も実現
ストレス病だった?西郷隆盛
〈大久保利通襲われる〉
赤坂・紀尾井坂 2010年5月30日撮影
紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺!明治維新の“三傑”といわれた男の最期とは
大久保利通の墓
薩摩藩士・大久保利通の墓
青山霊園 1996年8月4日撮影
大久保利通関係文書表紙
見廻組・蒔田広孝の墓
勝林寺=豊島区 2005年5月20日撮影
竜馬が、西郷が・・・
この写真が本物なら、勝海舟が海軍奉行となり海軍操練所で教えていた時のものと推察する。それとも、それ以前奉行並時の長崎・海軍伝習所でのものと思われる。
※所有する幕末・維新の暗号(加治将一著、祥伝社発行)にこの写真について詳細に記されている
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