江戸残留の会津藩士と新撰組動向

流山近藤勇陣屋跡会津戊辰戦争(弐-一)

〈会津藩、江戸を去る〉

江戸残留の会津藩士と新撰組動向

 

新選組と共に甲州城をめざす

江戸残留した者の中で、田中土佐、井深恒五郎、原(坂本)源四郎、柴田八郎、山崎荘助らは、旧幕府全権勝海舟の命により「甲州城の鎮撫」を受けた「新選組」と共に「甲陽鎮撫隊」として甲府へ向かった。三月一日(3月24日)であった。

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会津藩士田中土佐らは、先に江戸を出立したとの説もあり、八王子辺りで合流したという。この田中、井深、原らは、この後江戸に潜伏し、三月二十日(4月12日)頃江戸を出立し、会津をめざしている。途中(三月二十二日)小山藩で結城藩主の一行と偶然に出会い「結城の戦い」をして帰国している。

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「新選組」は三月一日(3月24日)江戸を出立し、三月六日(3月29日)甲州・勝沼の柏尾の戦いを西軍「東山道鎮撫総督」軍と展開した。西軍は土佐藩士板垣退介率いる一隊であった。(幕末・新選組を参照)

甲州鎮部隊

〈勝沼・柏尾の戦い〉〈近藤勇古戦場跡〉

「甲陽鎮撫隊」は旧幕府より大砲二門、二千両、会津藩より千二百両、旧幕府典医の松本良順より三千両の軍資金を受け、浅草の弾内記の配下者含め約二百人ほどの隊士を率い、三月六日(3月29日)「柏尾」で板垣退介率いる西軍と戦闘となった。(詳細は幕末・新選組を参照)

1970年5月5日撮影

近藤勇古戦場跡

〈柏尾古戦場跡〉

「鳥羽伏見の戦い」で新選組結成以来の豪者の隊士を失っていた新選組は戦さも知らない寄せ集め的に近い集団であった。大砲の撃ち方もよく知らない隊士たちも奮戦するが、約二時間程で破れ江戸へ散り散りに敗走となった。

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会津藩士田中左内らは、戦死者を出しながらも「八王子」辺りで新選組近藤勇らと別れたと伝わる。

2004年5月22日撮影

近藤勇柏尾古戦場跡

〈会津藩士柴田八郎の墓〉

長い間、ブドウ畑の中に建ち、西軍の兵士と伝わっていたが(土佐藩士と)最近になって、会津藩士柴田八郎と分かり墓碑が1982年(昭和57年)に建立された。長い風雪によって文字が風化して判読できないが、戒名のようである。

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会津藩士の墓◆ぶどう島の中に建立される幕軍兵士の墓がある。名は柴田八郎と称する会津藩士である。明治30年(1897)雨宮という人が戦乱の中で柴田の遺骸を見たことからの建立という。

会津藩士柴田八郎の墓

 

※資料は「大善寺」に戴いたもの。文中の「柴田一郎」が柴田八郎である。

柴田八郎の墓

会津藩士柴田八郎の墓

〈会津藩士・山崎荘助捕われ処刑される〉

「新選組」は京都時代以来、会津藩とは深いかかわりとなり、江戸に戻った後にも、会津藩は新選組への関わりは続いていたものと推察できる。幕臣勝海舟の主戦論者の江戸追放に新選組もその一つであった。江戸残留の会津藩士も、この「甲陽鎮撫隊」と名を変え甲州へ向かう新選組に参加している。後日新選組が三たび再起するため、綾瀬・五兵衛新田に集結している時、会津藩士が何度か訪ねている。何を語らい何をめざしてのことであったのだろうか。会津への誘いではなかったのか。

山崎荘助

〈芝山と大善寺山門〉

京都以来の隊士は「鳥羽伏見の戦い」で多くを失い甲陽鎮撫隊の半分に満たない数であった。同じ戦いを潜り抜けてきた会津藩士は、例え少なくとも近藤・土方らには心強いものであったろう。

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しかし、会津藩士は新政府といっても薩長が牛耳る政府には到底許さざるものがあった。そのためには抵抗軍には参加しあくまで戦う姿勢を貫いた。

(上)2004年5月22日撮影

(下)1970年5月5日撮影

大善寺山門

〈新選組再結成する〉〈五兵衛新田・金子邸〉

三月十九日(4月1日)甲州柏尾で西軍との戦いに敗れた「新選組」は江戸に戻った隊士の集結を待ち再起を図るため五兵衛新田に陣営する。幕臣勝海舟は西軍と江戸総攻撃中止の交渉時に再び江戸に新選組を駐屯させては置けない。大砲二門、銃二百挺を渡し江戸たちのきを示した。近藤勇らは三月十三日(4月5日)この地にきて隊士の募集・調練をしている。そして、六日後の十九日に会津藩士兼川直記が訪ねた。会津への誘いかそれとも江戸周辺での待機か、互いの胸の内を語り合ったのだろうか。どちらにしても「今後の」ことについて話し合ったものと思える。流山で近藤勇が降下後、隊士らが会津へ向かっていることからも、十分に考えられることである。因みに四月九日(5月1日)~十日にかけて、江戸を脱けた幕軍歩兵隊の「撤兵隊」の中に「細川外記」が居た。江戸潜伏中に名を変えたのかも知れない。

2004年3月31日撮影

五兵衛新田・金子邸

三月二十七日(4月19日)再び会津藩士が五兵衛新田の本陣を訪ねる。

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この頃、会津藩士の江戸潜伏者は旧幕軍に加入する者、上野彰義隊に加入する者など結構な人数が江戸の情勢を見守っていたと思われる。また、甲州柏尾の戦いに参加した「田中左内」ら一隊は、結城にて結城藩主を擁護して帰藩途中、彰義隊と共に戦いをしている。

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「新選組」について拙著「幕末新選組」に詳述してあるが、一応ここにまとめて掲載する。

江戸潜伏の会津藩士

〈流山〉

四月一日(4月23日)五兵衛新田を出立、二日松戸宿出立して流山に入り着陣する。三日(4月25日)突如、西軍に包囲されてしまった。二百三十人の隊士の殆どは調練に出掛け、残る隊士は僅かであったという。この中には会津藩士はいなかったのだろうか。新選組隊士(幹部)斎藤一(山口次郎)はこの後会津に姿を現し、共に戦っている。銚子へ出て船でいわきに上陸、陸路会津へ向かった者と陸路を取り会津へ入った者がいる。会津藩が案内したのだろうか、それとも五兵衛新田・金子邸で打ち合わせたのだろうか。

2003年11月13日撮影

流山近藤勇陣屋跡

 

突然、西軍に囲まれ近藤勇は土方歳三らと語り、近藤勇は投降することに決めた。五兵衛新田に数度、会津藩が訪れ今後の事について語り合った上での流山である。この日隊士の調練で殆ど陣屋には居なかったというが、甲州勝沼まで行った会津藩である。今日のこの新選組に一人も同行しなかったのだろうか。会津行きが最終目的ではなかったのだろうか。「加陣屋」(田中藩下屋敷)乗っとりを考えていたというが、江戸にはまだ多くの旧幕軍・幕臣・旗本が残っているのである。流山で江戸の情況を見ながら事があれば、近隣の諸藩と呼応して西軍をたたくことも視野にあったのかも知れない。近藤の投降によって隊士は脱ける者もあったろうが、会津を目指したものもいる。その中に会津藩士がいたのであろうか。

近藤勇陣屋跡

近藤勇陣屋跡

流山と新撰組

流山と新選組

〈会津藩士「結城の戦い」に参戦する〉

三月六日(3月29日)「柏尾の戦い」に参戦した田中佐内、坂本源四郎らの一行は江戸に潜伏後、三月十四日(4月6日)「江戸総攻撃」の西軍は、西郷と勝海舟の「会談」により「中止」となり、江戸残留組の会津藩士の中では帰国する者も出た。田中らはその一隊であった。「江戸の情勢」「西軍の動勢」の報告もあったのかもしれないが、三月十五日(4月7日)頃か、田中左内らは若松へ向けて江戸を出立した。

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三月十七日(4月9日)田中らは「古河宿」に至った。数日間滞在した。「下野」の諸藩の動勢も探索したのかもしれない。

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この頃「結城藩」は「恭順」か「戦い」か議論百出の中、藩論は二つに分かれていた。

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「下野」の諸藩全体が西軍の「江戸浸出」の動勢に、藩の態度を決するにどこも藩論が中々統一できず、不安定な状態であったようだ。

結城の戦い

〈江戸残留藩士、襲われる〉〈広徳寺〉

右の資料に「船で帰府し」とあるが、原本が手になく夕刻日本橋西海岸に上陸とあり何処かへ出張していたのだろうか。

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この頃西軍は「江戸周辺」の宿場まで侵出していた。

(1)東海道品川宿には「大総督府」(薩摩藩西郷隆盛)

(2)板橋宿には「中仙道軍」総督府

(3)内藤新宿には「東山道軍」総督府(土佐藩士板垣退介)

が滞在し三月十三、十四(4月5.6日)旧幕府全権勝海舟と西軍大総督府の西郷隆盛が「江戸総攻撃」回避の「会談」を「高輪」の薩摩藩邸に於いて行い「江戸の戦い」は回避されている。西郷は「会談」の結果を持って徳川慶喜の処分について再検討のため京都に赴いている。

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そんな情勢の中で会津藩士佐川主殿、石黒恒松の襲撃事件が起きた。

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「関東大震災」で寺域は焼失しその後の区画整理のため1925年(大正14年)に練馬に移転した。その時に「佐川主殿」の墓は不明となってしまったよう——–と住職の話。

広徳寺

〈広徳寺〉〈説明文〉

広徳寺説明文

三月二十二日(4月14日)夕刻、旧幕陸軍第七連隊に所属していた佐川、石黒は料理屋に於いて晩餐中暴れる旧幕騎兵隊員を詰責するが、ついに抜刀し斬り合いとなり佐川に傷を負わせ騎兵隊員らは逃げ去ったが、帰途隊員らは「第七連隊」の屯所に立ち寄り「佐川らが乱暴している」と告げ口した。第七連隊は十志語名が日本橋西海岸の料理屋に向かい、佐川らの部屋に入るなり「事の次第」も確かめず、いきなり斬りつけ佐川らは重傷を負った。同士討ちであった。佐川は後日死亡。石黒は治療を受け回復し八月に入り船で磐城領の「江網」に上陸し八月十九日若松城下へ到着した。佐川主殿は第七連隊が盛大な葬儀を行い「下谷・広徳寺」に埋葬された。

佐川主殿の墓

広徳寺パンフレット

広徳寺パンフレット

〈西軍「江戸」へ浸出する〉

三月十四日(4月6日)の二度目の会談で西軍の「江戸総攻撃」は中止されたが、江戸市中は騒然としていたという。江戸残留を決めた会津藩士らは、旧幕軍に入り、一戦あらばの覚悟はあったと思うが、西軍が江戸侵入真近か肌で感じていたであろう。会津藩士秋月登之助を中心に旧幕幾軍に入り「小川町伝習隊=別伝習隊とも」で軍事訓練しながら、幕臣、旗本らの動勢も探っていたと思われる。

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徳川慶喜の「上野寛永寺」に於ける「恭順・謹慎」の警護と称する「彰義隊」も江戸市民の支持を受けていた。その上、約二万余といわれた旧幕陸軍も「江戸脱出」組もあったが健在であり、日本一の海軍も無傷のまま「品川沖」に停泊中であった。

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西軍は十四日の「会談」後、京都・朝廷に於いて「評定」を行い

(1)慶喜の処分

(2)旧幕軍の解体

(3)旧幕海軍の軍艦の引き渡し

などを決め、四月四日(4月26日)「大総督府」が江戸に入った。旧幕府と西軍の「最終的評議」が行われた。

四月十一日(5月3日)「江戸城明け渡し」となり、徳川慶喜は「水戸」へ隠居となった。この夜、会津藩士広沢富次郎、林三郎は勝海舟邸を訪ね「会津藩」の救解を西郷と会談したい旨、依頼する。会津藩主松平容保は「恭順・謹慎」を帰国時に伝えていたが、そのための活動に江戸残留した会津藩士もいたのである。しかし、西軍は十二日、西軍諸隊に江戸残留の会津藩士に警戒を強めるよう「達し」を出している。

 

西軍江戸へ浸出

「鳥羽伏見の戦い」以降の「会津藩」を追ってきたが「江戸残留組」を除き、国元では「軍制改革」「藩境防備」「奥羽諸藩の会津救済」の動きが活発になっていた三月であった。

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ここで、「江戸における会津藩」の史跡を終えることにする。当時の「江戸の史跡」をまとめるが「江戸残留組」も四月十一日の江戸城明け渡しによって、それぞれが旧幕軍、諸隊と共に西軍との戦いを展開していく。その件は各編に詳述することにする。

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この編は一旦ここで終え「江戸の史跡」とし、次編で「会津戊辰戦争」を追っていくことにする。

松平容保会津鶴ヶ城へ帰国する

江戸の史跡

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