〈榎峠の戦い〉

〈同盟軍「長岡」で軍議する〉
五月六日(6月25日)奥羽越列藩同盟が成立した日、西軍海道軍と妙法寺周辺で戦い滞陣していた東軍(会津、桑名、衝鋒隊)は八日、妙法寺を出立し長岡城下をめざした。一方五月三日片貝の戦いで脇野へ退いた会津藩朱雀二番寄合組も城下に入った。
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長岡城下には同盟軍(これからは東軍をこう呼称する)が充満していた。五月九日(6月28日)会津、長岡、桑名藩そして衝鋒隊も加え軍議を開き、榎峠へ進軍している西軍を撃退する作戦と陣形を決めた。
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この頃小千谷談判を決裂させた西軍側は長岡藩と事を構えて会津追討の時期が遅れる事への懸念から無事長岡を通過するため尾張藩を妙見地方へ巡視させ、その接触を図ろうとするが遭遇する長岡藩士は皆口をきかず素知らぬ素振りをとり、常に避けていた。五月九日(6月28日)尾張藩砲士四、五名は六日市の茶店に入り、敵意のないことを示すため扇を外して外から見えるようにして長岡藩士を待っていたが、誰も近づかないため、店主を使い番として面談を申し込んできた。しかし、河井継之助は小千谷談判の岩村精一郎の応待からして尾張藩の一条をもって元に戻ることはないと逢うことはなかった。十日、同盟軍の軍議通り出陣し六日市に使者としてきていた尾張藩士渋木成三郎を茶店で捕捉し長岡に送り入牢してしまった。
〈同盟軍、出陣する〉
五月十日(6月29日)同盟軍は小千谷陣屋に本営を置き片貝の戦いで信濃川の西側本道(信濃川の東側)の六日市付近まで、すでに進軍し斥候隊を配置し、榎峠に先鋒陣の尾張、上田藩が布陣していた西軍に
(1)本道から進撃 長岡、会津、桑名藩(先陣は長岡藩)
(2)迂回路を取り金倉山方面 長岡、会津、衝鋒隊と進軍した
(3)城下の守備 長岡藩主体
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軍議には、長岡藩から長岡藩軍事総督河井継之助、花輪求馬、萩原要人、三間市之進、会津藩からは会津藩越後口総督一ノ瀬要人、佐川官兵衛、萱野右兵衛、井深宅右衛門、伴百悦、桑名藩からは家老山脇十左衛門、服部半蔵、立見鑑三郎、町田老之丞、馬場三九郎、衝鋒隊から古屋作左衛門、浮撃隊からは木村大作らが集まっていた。
〈榎峠の攻防戦に同盟軍勝利する〉
長岡市郷土資料館展示の朝日山方面
2003年8月24日撮影
〈榎峠古戦場の碑〉
迂回路を行く三国街道方面進軍隊と途中で別れ、榎峠隊は午後五時頃に浦柄に近い寺沢村に到着。榎峠は三国街道の難所で、切り立った崖の上に峠道が続き、守り易く、攻め難い場所だった。西軍は三日既に各藩兵を出し榎峠を占拠し、上田・尾張藩兵一小隊を防備にあたらせていたので頂上付近から銃、大砲を撃ち、激しい抵抗をしてくる。先行した川島隊が苦戦して引き揚げてきたので、浮撃隊、神風隊が突撃、その為、西軍は徐々に抵抗を弱め、少し退く。その頃には別の方向からも連合隊が攻撃を始めたので、夜九時過ぎになって西軍は斬り込みを恐れて信濃川を渡り撤退していく。榎峠は、会津藩・桑名藩・長岡藩・衝鋒隊・浮撃隊によって占拠された。
この時信濃川は大増水となっていたため、対岸からの増援ができない西軍は砲撃を激しく援護するが、その砲弾の中をかいくぐり、同盟軍は榎峠めざし前進する。
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長岡藩の砲門は妙見を攻略すると土塁に囲まれて陣地に砲を据えて対岸の三仏生へ砲撃する。雨のような砲弾が信濃川の上を飛び交った。
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夕刻時になり、ようやく砲撃戦は止んだという。榎峠は同盟軍の掌中に落ちた。
資料=桑名藩戊辰戦記
資料=会津若松市史(近世4)会津の幕末維新
〈榎峠の攻防戦〉
〈説明文〉〈榎峠古戦場〉
榎峠は北越戊辰戦争の古戦場である。この地は三国街道の難所として知られ信濃川が断崖の下にあった。慶応四年(1868年)五月、ここ榎峠で東西両軍の激しい戦いがあった。はじめ西軍が榎峠を占領していたが、長岡藩兵らの東軍側が奪いかえし、対岸の西軍陣地と砲戦を展開した。また南方の街道上からも激しい攻撃があった。東軍がよく守ったため戦いは朝日山に移っていった。
五月十日(6月29日)先鋒陣となった長岡藩が六日市に斥候隊として滞陣していた西軍尾張藩をいとも簡単に撃ち破り六日市と妙見の間に砲を据え、榎峠へ砲撃を開始、妙見に布陣する西軍が一斉に銃撃で反撃してきた。さらに信濃川の対岸に陣営する西軍が河原に砲を散開して砲撃を浴びせてきた。凄まじい砲銃戦となった。
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昼頃、同盟軍は尾張藩三人、上田藩二人を捕捉した。
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この日は一日中、砲銃戦となったという。
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一方、同盟軍・会津藩萱野右兵衛らは三国街道方面進撃軍と途中で別れ、迂回路をとり金倉山方面から榎峠をめざしていた。長岡藩は軍事掛川島億二郎、隊長大川市左衛門ら四小隊が進撃した。しかし、両隊とも同じ迂回路ではなく進んだようである。桑名藩(神風隊隊長町田老之丞)四十人、会津藩浮撃隊(木村大作隊長)、そして萱野隊(二百人)は共に迂回路を進み、長岡藩(二百人)は妙見山を進んだようである。
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長岡藩は金倉山に登り、妙見山へ進むはずが尾根伝いに進むことがかなわず、一気に山を下り西軍の斥候隊と遭遇し、急追して撃破し朝日山入口近くまで進撃、西軍の陣地を奪い激しい銃撃を展開する。会津藩は進軍が遅く、桑名藩はついに先に進んでいく。
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西軍の山からの攻撃に山下の道を進む同盟軍は射的となり苦戦する。夕刻頃会津藩は寺沢へ退いたが、桑名・浮撃隊は浦柄近くの妙見山を奪取、宿陣する。長岡藩も寺沢へ退いたようである。会津藩、長岡藩共に初陣であったため戦いの士気が弱かったようである。
〈榎峠古戦場碑〉
山道を進んだ会津藩萱野右兵衛は先陣となって出陣するが、遅々として行軍が進まず桑名藩神風隊隊長町田老之丞から激しく早い進軍を言われている。朝六ッ半(午前七時)に本営を出陣し、途中休憩し寺沢村へ着陣したのは八ツ半(午後五時)であった。いつの間にか殿軍になっていたっという。対岸の三仏生からの砲銃弾も飛来し、守備する西軍の攻撃に会津藩萱野隊は寺沢へ退いてしまったという。一方、桑名藩、会津浮撃隊は妙見山(石坂山と思われる)に登り榎峠・浦柄に守備する西軍(尾張・上田藩)へ猛砲銃撃を行い、ついに本営から同盟軍が攻めるのに十分な援護射撃となり榎峠を奪取することに成功した。
2003年10月28日撮影
〈榎峠〉
榎峠は現在は道路が造られ峠を越えなくてもよいが、当時は東に石坂山・金倉山の山々が連なり、西は断崖となって信濃川に落ち込んでいたという。その断崖の上を通るという難所で軍事上の要衝でもあったという。西軍は精兵の守備軍を配置せず、一度も戦いをした事のない尾張・上田藩を配備したことが裏目となった。この日、海道軍の参謀山県有朋が山道軍の本営小千谷陣屋を訪ねたという。激しい砲銃の音が響く中、軍監岩村精一郎ら幹部が談笑しながら昼食中であったという。怒り心頭の山県の問いにも砲銃の音は聞こえないと答えていたという。
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越の大橋の司馬遼太郎の”峠の碑„の場所から望む榎峠(手前)と朝日山
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榎峠の登り口(現在は危険防止のため入ることはできない。)
〈対岸の三仏生〉
信濃川の対岸三仏生に砲を据え妙見方面、浦柄村の妙見山への砲撃、銃撃は同盟軍の進軍を妨げようと激しいものであったという。一時は同盟軍の進軍が止まる程であったとも伝わる。西軍・松代藩の砲撃も激しかったのであろう。
〈西軍の砲弾が多数飛来した龍昌寺〉
西軍・松代藩の放った砲弾が直線で約2000ⅿ(三仏生)先にあった龍昌寺に当たったという。砲弾は本堂の屋根を突き破り、天井を抜いて壁に当たり突き刺さったという。
〈砲弾が着弾した龍昌寺本堂〉
当時は本堂脇や境内にも数多くの着弾があり、不発弾も多かったという。
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本堂の天井
斜め下に突き刺さった跡
飛来した砲弾
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