〈越後に於ける会津藩の動向〉
幕末、諸外国の艦船が日本近海に出没するようになると、幕府はその海防の重要さから諸藩に命じその防備にあたらせた。会津藩は長きに亘って房総、三浦半島にとその任を命じられ藩財政は逼迫する程であった。あらに北海道のシベツ、シャリ、アバシリも警備担当と命じられた。
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若松城下から越後街道を経て新潟に出、日本海側から北上し青森へ出、そして北海道へ渡るのが主なコースであった。そのため、新潟港は会津藩にとって重要な地点であり、周辺の新発田藩、村松藩とは交流を盛んにしてきた経過がある。
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慶応三年九月、会津藩は越後の諸藩に働きかけ新潟で会合し、諸問題の対応を協議し定期的な会合の開催などを取り決めていた。
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慶応四年(1868年)一月鳥羽伏見の戦いが勃発すると、会津藩は再び諸藩の会合を呼びかけていく。そのため、会津藩は一月十八日(2月11日)藩士萱野安之助を使者としてまず村松藩に送り、同藩軍事方・坪井静作と面談し鳥羽伏見の戦い等の詳細な事などを語ったと思われる。勿論、各諸藩の江戸詰との面談なども行われている。さらに越後方面に滞在する(陣屋などに)会津藩士も諸藩との接渉・面案は行われていたようである。萱野は二十日の朝五ツ時(午前八時)坪井の見送りを受け村松を出立した。二十四日津川で昼食を取り、下野尻へ宿泊。そこへ若松より使命が届き、二十五日夜明け頃、早打で酒屋陣屋へ向かった。恐らく、幕府より越後領の預かりの用命が届いたか、それとも、後日行われる酒屋陣屋に関する事であったのか。
〈諸藩との面談、活発となる〉
一月二十日(2月13日)会津藩では鳥羽伏見の戦いの後、諸情勢をかんがみ、長岡藩、村松藩に呼びかけ会合の開催の取り決めを協議し、諸藩へ三藩連名でで酒屋会議の書簡を出した。会議は二月一日に行われた。これらの会合がやがて奥羽越列藩同盟へとなっていくのである。
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酒屋とは信濃川沿いにある村(町)の名であり、陣屋等々があった。新潟港は諸藩にとっても重要な大事な港であったのである。
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一月十八日、会津藩使者と面談した村松藩坪井静作は、その内容を当然報告した。村松藩はそれを受けて一月二十一日(2月14日)坪井に会津若松の出張を命じ、坪井は二十三日、藩士工藤武七郎、川口佐内らと共に若松へ出立し、二十七日若松城下の七日町の宿「清水屋」で会津藩士と面談する。
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村松藩(藩主堀直賀)は三万石であったが、幕末時「勤皇派」と「佐幕派」と抗争が激烈を極めていたが、慶応三年(1867年)五月、勤皇派七士を処刑して藩論を佐幕派に統一した藩であった。坪井静作はその時、佐幕派といて活躍した一人であった。首席家老堀右衛門の下であった。しかし、八月四日(9月19日)西軍に幸福となった時、戦争責任者として家老堀右衛門と斎藤久七が斬処された時、坪井静作も切腹を申し言い渡された。
〈庄内・村松・会津藩、面談する〉
この当時、庄内藩(藩主酒井忠篤・十六万七千石)は朝廷(西軍大総督府)より、会津藩同様、追討の処分は下されていなかったが、鳥羽伏見の戦いの口実となった「江戸薩摩屋敷焼き打ち事件」を起こした藩であった。その「庄内藩士田瀬速水」が使者として若松城下に滞在していた。一月二十八日(2月21日)若松城下・七日町の宿清水屋で会津藩・村松藩・庄内藩の三藩の面談が行われた。鳥羽伏見の戦い以降の諸情勢を語り合ったものと思われる。村松藩坪井静作は翌二十九日若松を出立し帰国に向かった。
清水屋跡 2010年9月19日撮影
〈越後の諸藩と会津藩の会議開かれる〉
一月十八日(2月11日)会津藩使者として萱野安之助が村松藩軍事方坪井静作と午後五時から面談し、さらに二十日に会津・長岡・村松藩連名で「酒屋会議」の開催通告を諸藩に出していたが、二月二日(2月24日)に実施された。新潟港は旧幕府領で新潟奉行所が置かれていたが、大政奉還後は徳川領地となったが、幕府が崩壊し、その運営は不安定な情況であったため、諸藩が力を合わせて運営する必要から会津藩の提案で実現した「酒屋会議」であった。
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会議は会津・長岡・村松・新発田藩が出席した。
(1)新潟港・周辺の旧幕領を諸藩に委任し、その守備も含め安定化する
(2)港使用料等々で運営し安全・安定のため台場を構築し、大砲をつくり警備する。
(3)外国との貿易は諸藩はまだ不慣れのため奉行所の外国奉行役人が出張し指導、諸藩と十分に打ち合わせ(評議)の上、会計する。
(4)使用料等々の会計は諸藩立ち合いの上行う
などを取り決め、新潟奉行所に申し入れることに決した。しかし新発田藩はこの申し入れ書に同意せず帰藩してしまった。
〈越後に会津藩領地増える〉
一月二十九日(2月22日)旧幕府・徳川家より越後の旧幕府領地を会津藩に預ける旨の達しが旧幕閣稲葉正邦(淀藩主)より、徳川慶喜の命であると伝えてきた。越後国・蒲原・魚沼の両郡の内、石高十一万三千石余であった。慶喜は松平容保が固辞し続けた「京都守護職」を強引に押し付け、五年に及んだその政務、鳥羽伏見の戦線から、これまた強制的に連れ出した事等々に対する、さらに謹慎を考え出していたのであろう手切れ金的な要素も含まれていたのかも知れない。
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しかし、この預かりとなった以上、会津藩はその運営のため藩士の出張を出立させなくてはならない。会津追討が西軍から発令されたら、その守護のために出陣も考えなければならない事になったのである。実際、西軍大総督府はすでに奥羽諸藩にその命を発令してきていたのである。
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当時、会津藩は藩境の主な関門だけでも十数口もあり、その上越後にもその領地が増えた事は、多くの藩士を出張させなくてはならなかった。
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実際、そのため越後方面だけでも出陣の諸隊は多かった。そのため、二月七日(2月29日)津川、赤谷より三月決にかけて地方御家人(郷村に在住している家禄ある士)や農民を徴募して組織化して藩境防備態勢を定めている。
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二月八日(3月1日)会津藩士池上武助・根本豊治は酒屋陣屋から村松藩を訪ね、坪井静作と面談する。二日の酒屋会議で席を立って帰潘してしまった新発田藩の動向について、またその対策などについて話し合われたものと思われる。池上らは一泊して戻っている。
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酒屋陣屋は井深宅右衛門(五百五十石)(第二遊撃隊隊長)が常駐していた。井深宅右衛門は鳥羽伏見の戦いが勃発した日(正月三日)日新館の館長を務めていたが、越後方面への出張命を受け、館生徒の中から約七、八十名を選抜し、一隊を編成(当時、諸生組=備組と呼称するが後、木村忠右衛門の大砲隊と合併し第二遊撃隊となる)組頭茂原半兵衛、池上武助とし、若松を出立し酒屋陣屋に着陣、警備に当たっていた。
越後における会津領
会津藩は宝暦十三年(1763年)から幕府直轄領である魚沼群三百四十一ケ村(七万一千八百十九石)を預かり地として受領していた。さらに文久二年(1862年)京都守護職の役料として、その預かり地の一部(二万二千石)が会津藩領となった。そのため会津藩は津川・水原・酒屋・小出島等々に陣屋(代官所)を置き政務をとってきていたのである。
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鳥羽伏見の戦い後、会津藩は藩境防備を強化するため、二月七日(2月29日)藩士の子弟並みに「地方=ちがた=の兵」(郷村に在住し、家禄ある士を地方御家人=地方)を組織し配備する事を定めた。越後方面は津川、赤谷より三月決、伊南、伊北、桧枝岐、八十里越等々であった。勿論、幕府直轄地預かりとなってからも藩士を常備させていた。そのため近隣の村松藩、新発田藩らとは交流を持っていた。
会津藩士勅書を奪うとの噂
二月十日(3月3日)西軍「北陸道鎮撫総督府」は本隊の出陣前に先触れ役として勅書を持ち越後諸藩に使者を派遣し恭順を求めていた。その一行が三条に着くのは十二日であったが、新潟に向かっていた会津藩士(大場深之助ら)が三条に宿泊すると、その夜会津藩が百人程、三条に入りその勅書を奪うとの流言飛語が広まり、一時騒然となったというが、噂とはいつの世にもお騒がしいものである。
会津藩は文久年間(1861~1863年)から慶応(1865~1868年)にかけて越後に(1)小出島(2)小千谷(3)津川(4)水原(5)酒屋等々に陣屋(代官所)を設け、さらに出張所(六日市、十日市等々と思われる)も設置したと思われる。陣屋には藩士三十~五十名が常駐していたと考えられる。
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藩士井深宅右衛門は酒屋陣屋に詰めていた。そこへ二月十二日(3月5日)大砲隊(大銃打手組)の木村忠右衛門が甲子(上級)九人、寄合組十二人を新発田藩との藩境赤谷の守備陣として巡置し、自らは酒屋陣屋応援として津川に滞陣した。また同じ頃(二月十五日=3月8日)群奉行として町野源之助が一隊を率いて小出島陣屋に着任した。鳥羽伏見の戦いに敗れた前藩主松平容保・藩士らがまだ江戸滞住の時であった。
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いち早く、帰国していた家老萱野権兵衛(容保の指示を受けてのものと推測する)国元にいた西郷頼母・神保内蔵助らの家老と評議のもとに命じたものである。
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二月二十二日(3月15日)松平容保が会津若松城に帰国し、三月十日(4月2日)の軍制改革、十一日に諸隊の隊長・小隊長が決定されると「藩四境防備態勢」も改められ、越後方面もそれに伴って強化されてくるのである。
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