会津藩藩境防備体制強化、越後方面への出陣

新発田城址会津戊辰戦争(参-壱)

〈越後に於ける会津藩の動向②〉

会津藩藩境防備体制強化、越後方面への出陣

〈西軍「高田」に侵出〉

三月十六日(4月8日)朱雀二番寄合組土屋総蔵隊長に酒屋陣屋への出陣命が下り、翌十七日城内で松平容保に拝謁し、前藩主溝口直溥(新発田藩)の警護も重ねて命じられ、十八日(4月10日)城下を出陣(西郷勇左衛門の小隊も同行)二十二日に到着した。

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二月二十五日に越前に浸出した西軍・北陸道総督府は、三月に入り、十四、十五日あたりか「上越・高田」に侵入、その報が北越に伝わると緊張の中一種騒然の情況もあった。三月十六日(4月8日)酒屋陣屋の井深宅右衛門は、援軍としてきていた「遊撃隊」茂原半兵衛(隊長)に津川に行き会津陣営にその旨を報せた。この頃、津川は越後方面の本営であったと思われる。西軍浸出により観音寺に出陣させ猿ヶ馬場峠を守備させる必要から大砲隊の出陣の要請をした。

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大砲隊々長安部井彦之助は要請に応じ、一小隊を残し出陣を約すが、翌十七日家老西郷頼母から書状が届き新発田藩の動向に疑念があるため、新発田藩方面の赤谷口関門守備を強化するため城下からの援軍が到着するまで赤谷口を守備するようにとの命令であった。安部井は直ちに隊士東重次郎、佐藤勝弥を酒屋陣屋に使者として派遣し、その旨を伝えさせた。

西軍高田へ浸出

〈山内大学、越後へ出陣〉

会津藩は軍制改革すると、藩境防備体制も改めた。三月十二日(4月4日)であった。それまで各陣屋、口番所に警備体制を敷いてはいたが、さらに諸隊の出陣を定めたのである。

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越後方面には、井深宅右衛門の一隊が酒屋に布陣していたが、津川にも諸隊(砲兵隊等々)が守備していたが、町野源之助の隊、山内大学の諸隊にも出陣命が下った。

山内大学

〈越後方面の戦況と只見〉

山内大学は現在の大沼郡一帯を先祖代々領地として統括していた。本拠地を現在の金山町・横田に置き、郷兵・農兵を組織化し、主に八十里越、六十里越一帯を守備・警備し、軍事教練に励んでいた。山内大学の家臣として文武に励み、農業を始め、鍛錬していたのである。

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三月十九日(4月11日)山内大学は越後方面の出陣命に家臣の大島音之助を出立させ、農兵の徴募を行わせた。この一帯は前述したように旧来から山内家が代々領地を統括しており、沼澤家、河原田家の家臣らが指揮をとっていた。藩境防備体制が強化されると、六十里は沼沢出雲が、桧枝岐は河原田治部らが家臣・郷士・農民らと共に出陣し、それぞれ番所の守備に当った。

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山内大学の家臣大島音之助は各主らに大学の趣意を伝え、刀・槍の防備から銃への変換を伝え軍事教練を実施した。山内大学は金山・横田に至ると本陣を置き、約一ヵ月近く軍事訓練を続けた。四月十七日(5月9日)若松より小千谷方面の防備応援命が届き、叶津から八十里越から大白川に向かって出陣した。総勢百二十五人であった。山内大学は八十里越で隊士となった只見村の藤田喜兵衛、家臣の横田左馬介、渡部藤吉に、越後地方の主な家来への資金調達、情報収集を命じている。

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大白川で短期間滞陣するが四月二十三日(5月15日)小千谷に着陣した。そして井深宅右衛門、町野源之助らと共に「小出島の戦い」となっていく。

資料=只見町史

只見町史

只見町史

山ノ内屋敷跡

山ノ内屋敷跡

山ノ内屋敷跡

山ノ内屋敷跡

横田中丸城跡

中丸城跡

一方、酒屋陣屋井深宅右衛門の所に村松藩士坪井静作、稲毛源之右衛門が三月十八日(4月10日)に訪ね、面談が行われた。西軍・高田への浸出の情報により、その対応などが話し合われたものと思われる。三万石の村松藩にとって今まで親密に交流を深めてきた会津藩(二十五万石)の力は頼りになるものであったのだろう。観音寺への会津藩の出陣等々も伝えたことであろう。

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会津藩大砲隊は西郷頼母の要請に応じ、津川に滞陣していたが、すでに赤谷口には青龍二番士中組(有泉寿彦隊長)が出陣していたが、援軍も到着したため、三月十九日(4月11日)朝、船数隻に分乗し、激流の阿賀野川を下り酒屋陣屋に到着した。翌日、陣屋守備陣井深宅右衛門の隊と共に観音寺へ向かって出陣する。

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一方、会津若松では越後口方面への国境警備の充実を図るため、城下の諸隊への出陣を開始していた。三月十七日(4月9日)山内大学の一隊を出陣させた。山内は途中、西会津、横田村で農兵の徴募を行い、三十人の農兵を鉄砲の教練をしながら越後へ向かった。

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さらに、青龍三番士中組(木本慎吾隊長)に津川へ命じている。

山内大学

三月十七日に届いた西郷頼母の書状は下記の資料にあるように、三月十五日新発田藩前藩主溝口直溥が帰国のため会津若松城下へ止宿していた。その宿へ家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門が訪ね、(1)新発田藩の京都出兵(2)藩内の薩摩・長州人の潜伏などを責め、激論となった。その結果、西郷頼母は新発田藩の真意に疑念を持ち、赤谷口などの諸関門の警備を伝えたのである。三月十九日(4月11日)砲兵隊は津川を出陣し酒屋に至り、井深宅右衛門第二遊撃隊と共に明日弥彦の観音寺に出陣する事を約した。

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砲兵隊は酒屋陣屋の井深宅右衛門の隊と観音寺に出陣し守備していたが、西軍の侵軍情況をかんがみ井深隊は会津領となった小千谷陣屋へ向かい、砲兵隊安部井らは酒屋陣屋に戻り、守備することに定め三月二十七日(4月19日)それぞれ出陣する。

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酒屋陣屋を守備する井深隊の留守、茂原半兵衛、宅右衛門の倅、井深梶之助らは村松藩士の坪井静作らに面談を訪れ、話し合いが行われ三月二十八日(4月20日)八ツ半(午後三時)であった。村松藩との面談がしきりに行われているが、五泉・水原の陣営も近く、また長岡藩はこの頃中立武装の立場をとっていたため、互いに情報交換、分析、対応策等々が綿密に行っていたものと推察する。井深梶之助(十五歳)は父宅右衛門より約二ヵ月すぎに井深家の親類の中沢志津馬が一隊を率いて越後出張となり、同行し酒屋に至っていたのである。

会津戊辰戦史

坪井静作日記

〈新発田藩城下に滞陣する〉

新発田藩前藩主の警護を兼ねて酒屋陣屋守備の命を受けた朱雀二番寄合組と若年寄の西郷勇左衛門は二小隊(総勢六十~八十人)は、三月十八日(4月10日)城下を出陣、野沢・津川(洪水で二泊)・赤谷と宿陣し二十二日(4月14日)新発田城下に着陣した。(西郷勇左衛門は溝口と激論を交わしていた)しかし、土屋総蔵らは酒屋へは出陣せず西郷だけが出立し、そのまま新発田藩城下より離れた五十野村に滞陣を続けていたが、さらに城下の長徳寺に移陣したのである。当然、若松城下出陣の際に内密にその旨の達しが土屋には伝えていたのではないだろうか。それとも西郷勇左衛門の命であったのか。そのため新発田藩軍事方は怒り、会津藩との断絶を藩主に献策する騒ぎになったが、西軍の高田浸出の報があり、会津領小千谷の情況が切迫するとの報に土屋らはその方面への出陣命が届き、出陣となったため、その騒動はおさまった。しかし、三月二十二日から四月三日までの期間、新発田藩にとっては会津陣営の滞陣は目の上のコブであったろう。

新発田城址 2013年8月16日撮影

新発田城址

新発田城址

新発田城址

新潟治安維持にむけ越後同盟成立す

長楽寺 2013年8月16日撮影

長楽寺

長楽寺

長楽寺

堀部安兵衛誕生の地

堀部安兵衛誕生の地

堀部安兵衛 生誕の地 | しばた観光ガイド

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