〈越後に於ける会津藩の動向②〉
〈越後へ出陣〉
二月十二日(3月5日)今まで村松藩坪井静作らとの面談、さらに酒屋陣屋詰の井深宅右衛門からの情報などから、会津藩は初めての軍を出張させた。大砲隊(隊長木村忠右衛門)約八十強人であった。(資料の後段の布陣はもっと後日のものである)不穏な形勢とは西軍の侵出動向か新発田藩の動向なのか定かではないが、北陸道鎮撫総督府(西軍)からの勅書が三条に到着するのは十二日であったが、すでに小千谷か長岡あたりに届けられ、それらの事が酒屋陣屋から急使として会津へ届いていたのかも知れない。
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会津藩は越後方面への藩諸隊の出張は(出陣)それ以前に越後の諸藩に出兵の回状を出していたのである。
”京都守護職となり長い間、京都に在任中、先帝からも度々その誠心精忠の感状まで下賜される程であったが鳥羽伏見以降、朝廷の汚名を着せられ、人心不穏となり脱藩する者もあって、今回の勅使の先触れに当たり、万一にも不敬等の儀が起こってはいけないので、まして天朝に恐れ多い事とならぬよう、出兵し守護するもの„
の内容であった。しかし、追々出張する藩士が増えることも付け加えている。
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十五日(3月8日)大砲隊(隊長木村忠右衛門)一番格(二十余人)は赤谷に到着し藩境の警備についた。小出島陣屋には群奉行となった「町野源之助」が、この頃に着陣した。
〈新発田藩主、若松城下へ〉
二月十二日(3月5日)新発田藩主(溝口直正=十万石)が、いつものように会津を経由して越後街道を通って帰藩(江戸へ向かう時も)するため、若松城へ先触れを出して原村に入った所、会津藩士本田富四郎、大竹富記らの出迎えを受け、城下までの護衛を七日町の宿(清水屋)まで送った。
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新発田藩主、城下に到着を知った会津藩士二十数人が宿舎前に金鼓を鳴らしたり罵言を吐いたりして騒々しくしたりする行動を行った。藩士の中には西軍「北陸道鎮撫侠」(前述した勅書を持った先鋒役)を迎え入れようとする新発田藩に対する疑念、さらには鳥羽伏見の戦いには出兵させなかった事への思いがあった者もいたのである。
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新発田藩は元々勤王色の強い藩であった。従って西軍には協調の姿勢を示していた。そんな情勢・動向から藩士の中には敵意を抱く者もいたのであろう。これら藩士たちの行動を知った家老萱野権兵衛は宿舎を訪ね、その非礼を詫び警護を申し入れている。
〈会津藩士、新発田城下に滞留する〉
二月十三日(3月6日)会津藩家老萱野権兵衛は宿舎を訪ね、藩主溝口直正に拝謁し藩士の非礼を詫び。警護を申し出る。さらに新発田城下まで藩士を護衛として随行させることまでを申し入れた。新発田藩は誤解を説くために、それらを了承するが、城下に会津藩士が滞留することになったのである。
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この会津藩士の護衛は武田玉朗らであったが、実は新発田藩監視的役目を秘かに命じられていた節がある。新発田城下に到着すると、今度は新発田藩士が会津藩士らに対して懐疑的になり、城下滞留から郭外の(離れた)「五十野」まで退かせた滞留となっている。
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もっと後日の話になるのだが(三月十五日=4月8日)今度は、前藩主溝口直溥が帰国の際、若松城下「止宿」の際、会津藩家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門が宿舎を訪ね、厳しく詰問し、激論を叱交わす事になるのである。さらに七月二十五日(9月11日)新発田藩は「奥羽越列藩同盟」に加盟していたが西軍の新潟太夫浜の上陸に協力し入城させ、さらに会津侵攻の先陣となっていくのである。
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二月二日、酒屋会議で取り決めた新潟奉行所へ提出する書状に対して、村松藩は坪井静作を酒屋陣屋に派遣して、その決定事項を順守する旨を伝えてきた。これら一連の諸藩の取り組みが、やがて成立する列藩同盟の下地となっていくのである。
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西軍「北陸道鎮撫総督府」は、会津藩の出兵国状を手にすると、二月十七日(3月10日)会津藩の通行禁止せよと命じ、従わない時は武力をもって処すことを諸藩に布告してきた。
西軍北陸道総督府は、総督高倉永祜(公卿)、副総督四条隆平(同)参謀山形有朋(長州)黒田清隆(薩摩)一月十七日(2月10日)京都を出陣「小浜」「敦賀」等々を経て二月十五日(3月8日)越前(藩主・松平春嶽=松平容保の実兄)に入っていたというが、約一ケ月かかっている。
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これより先、一月十五日、西軍の先遣隊として赤報隊が信州に向けて出陣した。赤報隊は大総督府の命により、未だ恭順か抗戦か定まっていない諸藩の動向と民衆の支持を得るために、結成させた隊であった。(会津戊辰戦争(弐)参照)
当時、民衆を討幕に引きつけるため、一月十二日に幕府領の年貢の軽減の建白書を出した相楽総三の意見通り、朝廷は認め、それを旗印として進軍させたのである。しかし、西軍・朝廷の財政は厳しく、年貢半減令を布告したものの、不可能であった。そこで相楽らの赤報隊を偽官軍として処分する事となった。
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そんな情況が起こった中、北陸道総督府はは出陣したのであった。そのために行軍は遅れがちとなったかも知れない。また、先々の諸藩の動向を西軍への恭順を取り付けながらでもあり、予定通りの会津侵攻の行軍とは進まなかったようである。

〈村松藩と面談〉
会津藩は二月十六日に江戸を出立した松平容保が二十二日若松城に帰国してから軍制改革に向けて藩士の衣服・頭髪などの自由を認めるなど、容保の謹慎のかたわら進めていた。さらに旧幕府の認可があった藩主隠退(喜徳に家督を継承)も帰国するとまだ幼い藩主に代わって政務を再びとる事になっている。鳥羽伏見で戦った藩士らも三月に入ると帰国を開始し、十二日には若松に第一陣が到着していた。
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一月二十九日以降、会津領と蒲原・魚沼両郡に伴い「水原」「五泉」「小千谷」などの旧幕府陣屋(代官所)も会津藩の陣屋となり、その守備陣の出陣も二月十二日以降、それらの陣屋へ派遣となっていった。三月六日(3月29日)萱野右兵衛が水原陣屋の陣将に任命された。数日前の二日(3月25日)には酒屋陣屋の代官井深宅右衛門は茂原半兵衛、丹羽右近を連れて村松藩を訪ね、坪井静作と面談している。刻々と変わる越後を取りまく情況を勅書の到達なども含め、語り合わされている。特に村松藩とは親密さも加わり面談の回数も増えている。四日に井深らは村松を出立した。
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会津藩士の帰国も白河街道、会津街道等々、混雑を少しでも緩和するため分散して行われていた。そんな中、松平容保は藩士の帰国を待たずに萱野権兵衛、西郷頼母(もしかしたらまだ帰国途上かも知れない)ら重臣らと軍政の改革を三月十日(4月2日)断行した。さらに翌日十一日には、諸隊の半隊頭以上を決定した。(隊長(中隊長)、半隊頭、小隊長=隊長)(戊辰戦争(弐)参照)
〈水原陣屋へ出陣〉
一月二十九日に旧幕府より預り領地となったその内の一つ水原陣屋の守備陣を派遣することに決し、番頭勤三奉行の萱野右兵衛を陣将として三月六日に決し、萱野は自分が組織した本郷の陶業家(徴募兵)の部隊も編入し三月十二日(4月4日)若松城下を出陣、野沢・津川と宿陣し、三月十四日(4月6日)船で阿賀野川を下り途中休憩しながら桃津に上陸、水原陣屋へ向かい五月一日(6月20日)まで滞陣する。
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萱野は総勢二百五十人を率いての出陣であった。
水原陣屋跡 2013年8月16日撮影
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