新潟治安維持にむけ越後同盟成立す
〈会津藩「興泉寺」を借り受ける〉
三月三十日(4月22日)会津藩結義隊(隊長渡辺英次郎)渡辺、井上大九郎、木沢鉄作の三人は五泉陣屋へ赴き、代官豊田儀七に面談を申し入れ五泉の興泉寺への宿陣のため借受の了承を得た。後々、会津藩が使用するためもあったのであろう。五泉陣屋は村松藩が管理していたのであろうか。村松藩軍事方坪井静作が立ち合い解決した。
〈藩四境防備態勢を整える〉
三月十日の軍制改革により、今まで出陣していた諸隊も含め、さらに江戸より帰国の藩士も揃い、改めて藩境の防備陣を編成したものであろう。しかし、総督等々の出陣はもっと後の出陣となるのだが、若松城に於いてその出陣情況を統括していたのかも知れない。この段階では武備恭順の会津藩であったが、仙台・米沢両藩主導で会津救解の動きがまだ具体的には芽生えていない情勢であった。本格的な戦闘態勢の出陣はまだまだ先の話である。
正福寺
資料=新潟島西堀通り寺めぐり
〈会津藩宿陣=正念寺〉(勝念寺)
瑞光寺
〈会津藩士梶原平馬、江戸から新潟港へ〉
越後に西軍の侵軍が報じられるようになり、会津藩諸隊、衝鋒隊の入越に一段と騒々の感がある中、四月二日(4月24日)会津藩若年寄梶原平馬が新潟港に入港してきた。
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梶原平馬は、松平容保の命を受けて三月三日、藩士の帰国が続く中、江戸残留し台場構築の研究と銘打って、会津藩上屋敷(江戸城和田倉門内)から江戸城辰ノ口門外の旧幕府作事方の屋敷に移り、旧幕の許可を得、以前江戸湾台場の防備をした会津藩台場や品川台場に赴きミニー銃、ゲーベル銃の小銃、弾薬、大砲、これらに関連する武具などを借用の形で国元へお送っていたが、約七日~十日前に江戸・品川沖から蒸気船(スネル商人の船か)で北洋回航で新潟港へ入港してきたのである。勿論、長岡藩家老河井継之助の紹介で武器商人スネルから購入した武器を積んであった。上越後、二ノ町・会津屋へ止宿した。同行していたのは小池帯刀、安部井政治、山口伊佐美らであった。当時、藩命として残留させたのは三十名といわれているが、その中にはすでに旧幕軍に参加した者、衝鋒隊に、新選組など混ざった者などもいたが、さらに脱藩の形をとり諸隊を結成したり藩士も数多くいたのである。
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この蒸気船には桑名藩主松平定敬も僅かな藩士を率いて乗船していた。すでに本藩は西軍に恭順し新藩主を擁立していたのである。松平定敬は会津藩主松平容保の実弟で風雲の京洛を所司代として容保と共に公武合体、京の治安等々に尽力したのである。新潟に休泊後、桑名藩の飛び領地・柏崎に向かい、西軍と会津藩と共に戦っていくことになる。(会津戊辰戦争(壱)(弐)参照)
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上陸した梶原平馬一行は阿賀野川を遡上し越後街道を若松城下へ向かった。いつ頃であったか分からないが若松城に入った梶原平馬は家老となり会津救解・奥羽列藩同盟へと活躍していくのである。

〈北越諸藩の同盟なる〉
四月三日(4月25日)衝鋒隊総督古屋佐久左衛門は新潟に入ると村上藩に副隊長桃沢彦次郎らを派遣したり、西軍の侵軍に対する北越の諸藩の団結を説いてきた。しかし、諸藩は旧幕軍の一隊の衝鋒隊の考えには理解する動きはなかった。一方、衝鋒隊士たちは軍資金が乏しかったのか新潟町人らに乱暴したり金子の調達など、横暴な振舞いがあり町の治安が不安定になっていた。
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新発田藩では軍資金、さらに守備陣として長岡藩、村松藩の人員の借用を拒否した。それらの動きに対する示威行動が新潟町民への乱暴となって表されたのかも知れない。
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四月一日、藩士を総登城させ、前藩主・藩主出座のもと”小藩(七万四千石)の長岡藩ではあるが、大義を守るためには孤立しても、徳川家より受け三百年の御恩に報い、会津追討の西軍と会津藩の間に入り、戦いを中止させ長岡藩を戦火から守るためにも武装中立をめざす〟と宣言した長岡藩家老河井継之助は演説後、直ちに新潟へ赴き、衝鋒隊総督古屋佐久左衛門に面談し、新潟の治安等々について語り合った。西軍の侵軍がある中で越後を戦火から守る事が河井継之助には最も重要であり中立武装の路線には大きな自信があったのであろう。
四月四日(4月26日)長岡藩河井継之助は村上、新発田、黒川、三根山、村松の諸藩の重臣を集結し、新潟港を含む新潟の治安等々に協議し、その結果を持って衝鋒隊総督古屋に面談し、越後六藩同盟を伝え、新潟の治安を維持することになった。もし、同盟ならずば、一戦も辞さない覚悟であった古屋にとっても喜ばしいことに違いなかった。古屋は直ちに副隊長内田庄司、松田昌二朗を桑名藩主松平定敬が布陣する柏崎へ派遣し、周辺の諸藩へも檄を飛ばし越後同盟への参加を呼びかけた。柏崎・勝願寺を本陣として滞陣している松平定敬は、その報せを受け殊のほか喜んだという。
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越後同盟に加盟した新発田藩は衝鋒隊から軍資金借用に今度は応じた。奥羽諸藩も藩内の戦火は避けたいのは皆同じであった。そのための会津救解へ本腰となっていたのである。越後方面では新発田藩は十万石であったが、一番の石高の藩であった。藩論は元々勤王が強く、会津追討も朝廷ではなく、薩摩、長州の私怨から生じていると捉えている節もあった。ただ隣県に庄内藩を控えている情況もあり、同盟加入であったことも考えられる。
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軍資金が調達できた衝鋒隊は越後同盟により根拠が定まり、当初の目的信州鎮撫へ出陣する事となった。頭並(副総督)隊長の今井信郎が率いる前軍は先鋒隊として四月八日(4月30日)出陣、翌九日、中軍(古屋総督)、後軍(内田庄司副隊長)が出陣した。長岡藩河井継之助にとっても新潟治安上一安心であったろう。しかし、越後は西軍の侵軍が北上する限り、その戦火の火種は、会津藩が越後に存在する限り安心は出来ない情勢であった。
〈高田藩「越後同盟」に加盟する〉
四月四日、衝鋒隊も参加したと伝わる「越後六藩同盟」が成立すると衝鋒隊は新発田藩から一千両の軍用金を借用し、八日、九日と二日間に本来の出陣目的であった信州鎮撫へ出陣した。
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一方、会津藩百余人は与板へ出陣する。その中の十四、五人が三条へ向かっている。新潟に布陣していた隊なのか分からないが、四月十一日(5月3日)の夜に着陣している。越後六藩同盟には加盟しなかった与板藩であった。長岡藩に隣接する位置にある。それらの動向探索を兼ねた出陣であったのだろうか。
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江戸・大総督は四月十四日(5月6日)薩摩・長州・加賀・富山藩に越後への出兵を命じた。江戸周辺はまだ完全に西軍が掌握されていなかったが、いよいよ越後への出陣を決定したのである。福井・郡山・小浜藩には出兵する諸藩への協力を要請し、さらに越後方面の新発田・村上・村松・与板・三根山・清崎・黒川・三日市の諸藩には会津追討の命が二十五日に発令されるのである。
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衝鋒隊は四月十六日(5月8日)総勢約六百人、出雲崎に宿陣するが、出陣しての七日間、途中与板では同盟に加盟しない事を恫喝したり、一部の隊士が略奪・狼藉を働いたりしたため、評判を悪くした。十七日、桑名藩主松平定敬が滞陣する柏崎に入り、桑名藩士と面談後、柿崎を経て新井に着陣、陣営を設け宿陣する。柿崎に入ると高田藩の竹田勘太郎、川上藤太夫が出迎え、その道案内で新井に入ったのであった。この時高田藩は至れり尽くせりの歓待で迎え、宿陣先まで用意していたのである。さらに越後同盟への加盟の意思あることを表明した。そこで、古屋佐久左衛門総督は、参謀の楠山兼三郎、軍監の松田昌次郎を高田城へ派遣し、同盟加盟」の協議を行った。二十日に高田藩の同盟加盟が決定した。
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