会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)
長岡へ集結②

〈薬師峠・灰瓜・市野坪の戦い〉
※この戦いは五月十四日との説もあるが、この日以降の会津藩らの足跡をたどると矛盾が出るので、一応五月十日説で進めていく。
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五月十日(6月29日)朝日山の攻防戦が展開されている最中、西軍海道軍の一部が妙法寺を攻略した西軍が関原に布陣したようである。その一隊が薬師峠に進軍してきた。一方、海道軍の一部も柏崎を出立し宮地辺りまで進軍。
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結義隊隊長井上哲作自ら野営して守備していた薬師寺の陣営(九名)へ西軍が攻撃する。必死の防戦する九名の結義隊へ戦闘を知った灰瓜に守備する結義隊の一隊渡部英次郎らが駆けつける。援護射撃を開始する。峠下の結義隊みかけつける。激しい銃撃戦を展開しながら灰瓜へ退く。水戸諸生党の筧助太夫が応戦する。西軍はその猛戦に一旦椎名へ退いた。東軍も市野坪の本営へと退いた。
資料=常陽芸文・2006年12月号
※この資料も五月十四日説のようだが(越後の資料も十四日とある)結義隊の井上哲作隊長らが五月十一日(6月30日)寺泊の桑名藩の倉庫から糧食(兵糧)を譲り受け野積村へ転陣し、七日間滞陣しているとの資料がある。井上哲作自身の戦争日記に刻されている。本人の思い違いも考えられるが七日間の滞陣となれば五月十八日になる。十四日説とすれば五月二十一日まで滞陣となる。また、新潟に守備する会津藩士佐藤織之進の一隊が五月十三日に出雲崎方面の風雲急なるを知り出陣し、翌十四日守備陣がなくなった寺泊へ出陣し守備に付いている。となると五月十四日の戦いとなる要素は残るが野積村へ七日間の滞陣も五月十四日以降となる。研究調査の課題として残る問題である。井上哲作戦争日記に未だ手にしていないのが最大のポイントである。
資料=茨城新聞
〈水戸諸生党・本陣跡=正法寺〉
市野坪へ退いた東軍は本陣や庄屋などにも屯集し、休陣中再び西軍は進攻してきた。諸生党は正法寺の裏山から砲撃、結義隊は銃撃を開始、激戦となった。
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諸生党から戦傷者が多く出始める。水戸藩領内農村の神官、郷士、郷医といった有志も交じっていたという。
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しかし、多くの犠牲者を出しながらも東軍は勇戦・奮戦、西軍を撃退させた。しかし、ここに留まる事は危険と脇野方面、出雲崎方面へと撤退することに決した。
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この日の西軍の諸隊は山道軍のようであった。正法寺は戦火によって燃焼したという。
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撤退した東軍は殆どが出雲崎に宿陣、諸生党は翌十五日弥彦に退陣したという。
〈灰瓜・市野坪の戦い〉
五月十四日(7月3日)西軍・海道軍は(薩摩・長州藩)は、山道軍の長岡城侵略の援護として出陣し関原村侵出狙って、まず水戸諸生党・会津結義隊が守備する灰瓜、市野坪へと進撃を開始した。
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西軍の攻撃は迅速で意表を突く間道からであった。反撃を開始する同盟軍は必死に戦うが、ついに敗れ退却する。市野坪の正法寺本営へも怒涛の如く砲銃撃を行った。山間からの砲撃が凄まじいものであった。すでに灰瓜も敗れた事をさとった。諸生党は日没後に炎上する正法寺を後にした。
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諸生党は六十五人の戦死、九人の負傷者を出した。家老筧助太夫の弟平三郎、群奉行岡野荘七郎、小姓頭取結城七之助らが戦死している。一方、薬師峠に布陣していた会津結義隊井上哲作も駆けつけるが戦いは利ならずであった。寺泊に退き佐藤隊と合流する。出雲崎に退いた大半の者は集結後、諸生党は弥彦へ、会津藩は脇野町方面へと退いた。会津藩佐藤織之進は守備陣が皆無となった寺泊へ向かい守備についた。西軍は出雲崎に浸出し宿陣する。
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会津藩佐藤織之進は新潟に守備していたが出雲崎方面の緊迫する情勢に二十五名の藩兵を率いて五月十三日に出立し十四日に出雲崎に着陣していたのである。
※ここまで筆を進めてきて、下記の資料をみてハタッと気付いたのである。
七日間の滞陣とある。とすれば、逆に五月七日に出雲崎から石地へ向かい水戸諸生党の本隊と会い軍議したとあるが、六日に荒浜方面で戦ってきたばかりの水戸諸生党が佐渡へ渡っている筧助太夫の隊へ戻る様指示しているのである。その往復、否戻ってくる日数もある。とすれば、その一隊も含め、布陣するとなれば数日は要するはずである。従って五月八日に直ちに石地に出向き石地、灰瓜、市野坪へ布陣したとしても無理が生ずる。例えそうであっても水戸諸生党の全軍は揃わないはずである。一旦出雲崎なり寺泊へ帰陣し、その後に改めて灰瓜、薬師峠、市野坪への出陣となったと考えるのが妥当なような気がするのである。この付近の戦いは、他の資料が示すように五月十四日が正しいようである。
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一方、新潟方面に守備していた会津藩佐藤織之進は、五月十三日(7月3日)出雲崎方面の風雲急なるを知り、隊士二十五名を率いて出陣し、五月十四日の戦いで敗走した同盟軍が寺泊に居なくなったため、出陣、守備に当たったという。(やはり戦いは十四日)
※従って上記の資料は十一日ではなく、この頃のものと思われる。
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市野坪を退いた水戸諸生党は二度の戦いで多くの戦死者を出し、弥彦まで退いた。滞陣となった。
寺泊・野積に滞陣する結義隊は軍資金が乏しくなり、隊長の井上哲作は五月十八日(7月7日)長岡城下に布陣する会津越後口総督一瀬要人のもとへ早打に訪ね、情況を説明し二百両を受け取り直ちに帰陣する。これによって海岸線の防備、守備三十日間滞陣することになる。
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薬師峠・灰瓜・市野坪の戦いで水戸諸生党と共に退いた結義隊は寺泊の先の野積に退き、乏しくなった兵糧を桑名藩の飛び領地寺泊で兵糧を譲り受けたという。さらに軍資金も欠乏していた。そのため、長岡城下の会津藩本営に赴いたのであるが、出雲崎に守備していた田淵房之進らの一隊はこの戦いに一切名を現わさないが、新潟方面の守備についていたのだろうか。長い越後の海岸沿岸の守備陣営であったのだろうか。
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