蛤御門の変

蛤御門京都守護職時代

〈池田屋騒動〉〈明保野事件〉

蛤御門の変

〈蛤御門の変起こる〉

扨て、話を「会津藩」中心に戻していく。

文久三年(1863年)五月十日長州藩は下関海峡に於て米国、フランス、オランダの艦船を砲撃し攘夷を実行するが、連合軍の反撃に砲台を占拠され敗退した。実際に西洋列強の攻撃を受け刃、槍中心の武力の無力を知るが、一方京洛に於ては朝廷に働きかけ、孝明天皇の「異人嫌い」を利用し、更に中川宮を中心とする過激派の公卿を扇動し、上洛していた徳川将軍の攘夷親征の勅書を幕府に命じた。八月十三日(9月25日)のことであった。事の重大さに、当時薩摩藩は朝廷を牛耳る長州藩が陰で勝手に「勅命」を出している事に危機感を持っていた。会津藩に提携を呼びかけ八月十八日(9月30日)幕府・会津・薩摩藩はついに禁裏の守備を長州から奪取する。長州藩は中川宮らを引き連れ、長州へと「都落ち」する。

-◇-

しかし、帰藩しても再び上洛し、権力の奪還を画策する。諸藩の脱藩浪士らと共に京洛に潜入、密かに天皇まで奪う計画もする。そんな不穏な動きを探知した新選組によって「池田屋事変」が元治元年(1864年)六月五日に(7月8日)起きる。その報に長州藩は憤激し、ついに益田右衛門、福原越後、国司信濃の三家老らが過激派の藩士、脱藩士、そして藩の諸隊を(約三千人)率いて進発した。名分は「勅勘」(ちょっかん)を蒙った七卿及び長州藩への復権を求め、釈明と赦免を求めるものであったという。

蛤御門の変

元治元年七月、長州藩は長州を出陣、淀川を遡航して山崎に着陣した。藩兵を三方面に配置せんと福原は伏見方面へ、益田は後陣とし、国司らは洛西の天竜寺へ進み陣営する。

一方、「公武合体派」は九条河原に新選組初め諸藩を配し、禁裏は会津・薩摩・桑名藩らが陣した。

長州は秘かに禁裏の公卿宅へ侵入させていた。

七月十八日(8月19日)には長州勢は既に禁裏への攻撃態勢はできていた。一方、幕府も諸藩兵と共に迎撃の陣営は整えていた。

蛤御門の変

〈天龍寺〉〈脇参道〉

山崎に陣をとった長州勢は、三方面に布陣することに決め、まず山崎から京洛めざす一隊は「久留米水天官」の宮司(脱藩浪士)真木和泉守、長州・久坂玄瑞ら五百人。幕府軍の間隙を抜って洛入であったという。伏見に浸出し、京をめざす家老福原越後率いる一隊一千人余。この天竜寺にははっきり分らないが八月十六、十七日あたりには陣営したものと思われる。「新選組」が秘かに偵察にきていると伝わる。

幕府・会津・薩摩・桑名藩を中心に御所の御門守備、九条河原布陣を考えても「蛤御門の戦い」以前にそれぞれ警戒し、守備の配置はとられていた。

蛤御門の変

蛤御門の変

〈鴨川九条河原の「公武合体」派の守備陣絵図〉

伏見方面には大垣・彦根藩らが、長州の福原越後の一隊が来るのを待ち伏せて守備していた。戦いは「稲荷神社」(藤森付近)で始まった。大垣藩の砲撃に長州勢は侵軍を阻まれ、戦いは大垣藩に有利に展開し、伏見の長州藩邸は彦根藩によって焼き打ちされ、伏見から敗走する。

一方、伏見方面の砲撃が京洛に響く頃、薩摩藩が天龍寺へ向かっていたが、その進撃から巧みに逃れ(すれ違って)、国司らは禁裏へと進んできた。

更に山崎方面から入京した神官真木和泉守らは(約五百人余)「堺町御門」内の鷹司邸に侵入した。

蛤御門の変

伏見方面の戦いが始まった頃、七月十九日(8月20日)の早暁、天竜寺から洛中を巧みに侵入した国司信濃、来島又兵衛らは「中立売御門」を目指して殺到した。門外を守備する幕府を攻め、突破し「蛤御門」を守備する会津藩と激戦となった。

長州藩遊撃隊長の来島又兵衛は馬上で指揮をとっていた。果敢に攻撃する長州勢に会津藩は苦戦となった。蛤御門の両側にある公卿宅からの銃撃が功を博していたのである。しかし、薩摩・桑名藩兵がかけつけ、長州勢を側面から攻撃する。その時、馬上の来島は弾丸を浴び落馬、戦死する。

戦況は一変する。長州勢は会津・薩摩・桑名藩に撃退された。この時、「禁裏」まで弾丸が飛来し、砲声硝煙凄まじく、皇太子は失神したという。この時は松平容保は病いであったが、参内し天皇の傍にいて守護していた。

一方、山崎から侵入した久坂玄瑞、真木和泉らは、途中、幕府軍の攻撃に一隊は散乱するが、久坂らは「堺町御門」の鷹司邸に前日から潜入していた「久坂」らが鷹司邸から攻撃し奮戦するが、会津・薩摩・桑名藩に包囲され、重傷を負った久坂は寺島忠三郎と刺しちがえて自刃する。真木和泉らは敗走し「天王山」に籠った。

九条河原に布陣していた「新選組」は「蛤御門」へ回避するが門外で薩摩兵と共に戦い「八ッ時」(午後2時頃)天龍寺へ進撃している。更に、七月二十一日(8月22日)京から敗走し「天王山」に籠った真木和泉らを追って新選組は天王山に赴くが真木らは自刃する。

蛤御門の変

蛤御門

蛤御門

〈禁裏・烏丸通り・下立売門前(上)、中立売門前(下)の屋敷〉

この付近でも戦いが展開された。烏丸通りに面しているこの門前は天龍寺から浸出してきた長州国司信濃家老、来島又兵衛遊撃隊長らが攻撃しながら「蛤御門」へと向かっている。

蛤御門

〈穴門〉

文久三年(1863年)八月十八日(9月30日)「政変」の後、御所・凝華洞(お花畑)に「京都守護職」屋敷が建設され、元治元年七月十九日(8月20日)の「蛤御門の変」の時は、松平容保はこの屋敷から病に罹っていたが、家臣に支えられ、朝籠で禁裏の東側「健春門」の北で籠をおり「穴門」から参内した。京都所司代は四月から容保の実弟・桑名藩主松平定敬が就任しており、共に小御所の廊下まで進むと、将軍後見職の徳川(この時は一橋)慶喜と出会った。慶喜は戦闘の指揮をとり、松平兄弟は天皇の傍らで守護することになった。

初めて禁裏にまで弾丸が飛来する経験をする公卿らは右往左往するのみで、一時は天皇を「下賀茂」に移すことを考えたが、松平容保の言葉によって中止となったという。

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当日、松平容保は病身であったが、長州勢が侵入する直前に体を支えられてこの「穴門」から「内裏」に入ったという。

蛤御門

〈蛤御門〉

当時は百メートル程左(東)に入ったところに在った。

-◇-

新選組が出陣し、この門から入ろうとすると、まだ「壬生浪士組」でそれ程会津藩士すべてに知られていたわけではなく、一旦入門を拒わられるが、無事守備につく(八・一八政変時)。会津・桑名・薩摩藩中心に守護する禁裏御門で戦闘となり、この「蛤御門」が一番の激戦地となる。この時、長州藩は御所に向けて大砲を撃ち放ったのである。いくら砲弾の中が「砂」であっても・・・。

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文久三年(1863年)八月十八日(9月30日)長州、攘夷派志士や公家らの横暴とも思える強引な朝廷の政事に危機感を募らせていた幕府・守護職らは薩摩藩と手を結び、御所の守備を長州のの手から奪い取った「禁門の変」更に元治元年(1864年)六月五日(7月8日)の「池田屋事件」に帰国していた長州藩は元治元年七月十九日(8月20日)の早暁、三方面から御所をめざして進軍、ここに「蛤御門の変」が起こった。この蛤御門付近が最も戦いが激しかった。

1969年3月(上)

2004年4月29(中)

蛤御門

〈蛤御門と清水谷邸の椋の木〉

〈説明版〉

禁門の変(蛤御門の戦い)

元治元年(1864)七月十九日、長州兵三方面から発して御所を目標に進んだが、たがいに連絡協力の余裕なく、それぞれ三ヶ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して藤ケ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組にたたかれてアッケなく敗走、国司信濃の天龍寺軍は一挙に御所の西側をついたが、会津・薩摩兵のため蛤御門から撃退され、益田右衛門之介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら越前兵に壊滅させられた。この日の戦を後世「蛤御門の変」と称す。実は三つの軍団の三つの戦闘なのである。その際に来島又兵衛政変、久坂義助通武、寺島忠三郎昌昭、入江九市弘毅、真木和泉守保臣等外数十名戦死あるいは屠腹する。これらの志士はことごとく霊山に眠る。

蛤御門

〈蛤御門・弾痕跡〉

長州は午前零時頃、伏見・藤ケ森から福原越後、天王山から真木和泉守(久留米の神官)、天龍寺から国司信濃らが御所に向かって進発。福原勢は大垣藩・新選組の守備に阻まれ、真木らは堺町御門近くで阻まれた。国司らは蛤御門に運よく到達、ここに戦いが始まった。

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この蛤御門は会津藩が守備、一瀬伝五郎、林権助らが率いる精兵である。長州は来島又兵衛らと中立売門を突破した国司らが猛攻。門外にすえた大砲から弾の代わりに砂を詰めて発砲(御所への実弾をはばかったことと思われる)会津藩の必死の反撃も次第に押され気味となった所へ薩摩・桑名藩の応援により撃退した。

蛤御門

〈蛤御門の弾痕跡〉

蛤御門

〈公卿・清水谷邸の椋の木〉

馬上で指揮する徴収の来島は銃弾を胸に受け落馬、即死。真木和泉、久坂玄瑞ら五百余名の一軍は堺町御門内の鷹司邸で奮戦するが、火を放ち自刃。この火が三日間燃えつづけ、京の街の「ドンドン焼き」といわれる程の大火となり、民家約二万八千戸が焼失した。(町数八百十一、土蔵千二百七棟、橋梁四十一、宮門跡三、芝居小屋二、公卿屋敷十八、武家屋敷五十一、社寺二百五十三、東は寺町、西は堀川、南は丸太町、北は八条で約5.25平方キロメートル)長州側の戦死者二百六十五名、幕府側は会津六十名、薩摩八名、桑名三名、彦根九名、越前十五名、淀二名の計九十七名であった。この戦いが長州対会津の戦いの様相であった。これが後々の戊辰戦争へと向かう下地であったとも思える。

〈乾門〉

当初、薩摩藩が守備していたという。下売立・蛤御門の危機の報に薩摩藩はここから応援に向かった。

乾門

〈薩摩藩邸跡=同志大学〉

「八・一八政変」後、薩摩藩も藩邸の増築が認められ、軍備も兼ねた藩邸にしたという。

薩摩藩邸跡

〈相国寺=薩摩藩墓所〉

相国寺

〈禁門変長州殉難者墓所=相国寺〉

この墓地の中に元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変、甲子の変ともいう)で戦死した長州藩士の墓がある。攘夷派の先鋒であった長州藩は、この前年文久三年八月十八日の政変で京都での地位を失ったが、長州藩は依然攘夷派の拠点となり勢力回復の機会を待った。池田屋事件で多数の志士が斬られたことに憤激して藩論はわき、家老福原越後らに率いられた長州軍が京都に近づき朝廷への強訴を企てた。朝廷、幕府側は会津、薩摩軍がこれを防ぎ七月十九日早朝、御所の蛤御門を中心に激しい合戦が行われたが、結局長州軍は敗退した。合戦で殉難した長州藩士は約二百名に上るが、うち二十数名がこの墓地に葬られた。しかし、その氏名は湯川庄蔵有川常槌の二名が判明するだけである。

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※真中の碑とその右側の墓 維新元治元甲子年 秋十九日 とあるのみである。

〈六角獄舎跡=平野国臣らが入獄〉

相国寺

 

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