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会津若松で奮闘した土方歳三

東山温泉会津戊辰戦争(弐-三)

旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

会津若松で奮闘した土方歳三

〈新選組、土方歳三若松へ〉

旧幕軍の参謀として四月二十三日(5月15日)「宇都宮の戦い」で足に負傷した新選組土方歳三は、同じく負傷した旧幕軍の第一大隊隊長秋月登之助と共に、二十四日昼頃、今市を出立し会津へ向かった。四月二十六日(5月18日)田島に入った土方らは、ここで秋月は(実父が陣屋代官を務めていた)治療することになり、土方は隊士を数人率いて翌日出立し、四月二十九日(5月21日)城下の「清水屋」に入った。

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この頃、旧幕府の御典医の一人であった「松本良順」も若松に入り「日新館」に於いて治療をしていたのである。土方は、その松本良順のすすめもあり、東山温泉などで治療に専念することになる。

幕末ポンぺに学んだ蘭学医「松本良順」をわかりやすく歴女が解説

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四月三日(4月25日)下総流山で、新選組局長(甲陽鎮撫隊隊長)近藤勇が不意の西軍の包囲に投降し、その時散り散りになった新選組は、会津へ向かい辛苦を重ね、若松城下に入り、元新選組三番組隊長山口二郎(斎藤一といっていた)の下に集まり、天寧寺に滞陣していたと伝わる。「土方、若松に入る」の報に新選組一同歓喜したという。

〈城下町・七日町清水屋旅籠跡〉2003年8月11日撮影

土方歳三若松へ

〈清水屋旅館跡〉

この場所には吉田松陰、土方歳三など多くの歴史的人物が訪れた「清水屋」という旅館があった。幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永五年(1852年)22歳の時に東北各藩を歴訪する大旅行をしている。中でも会津藩には特に強い関心を示し、二度にわたって訪れ、多くの人々と会い見聞を広めている。松陰の旅日記「東北遊日記」に記された七日町の宿が、ここ「清水屋」であった。松陰が会津から去ってから10年後に戊辰戦争が起こる。会津と運命を共にした新選組副長・土方歳三は宇都宮の攻防で足を負傷し、会津田島を経て「清水屋」に運び込まれ治療を受けている。土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦いを続けた。明治15年(1882年)には「清水屋事件」が起こる。喜多方出身の自由民権運動家・宇田成一らが帝政党員に襲われ重傷を負う。宇田成一はこの後、国事犯として捕らわれるが、明治25年(1892年)には復権し、県会議員に当選、最後まで自由党を守り通した。木造三階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治、大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、昭和初期に惜しまれながら取り壊された。

2003年8月11日撮影

会津清水屋跡

〈七日町・清水屋跡〉

七日町清水屋跡

〈東山温泉〉

東山温泉

会津若松で奮闘した土方歳三

今市から土方歳三を護送してきた新選組隊士は島田魁、中島登、漢一郎、畠山二郎、沢忠助、松沢乙造らの六人であった。

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この頃、土方歳三と交友の合った旧幕府の医師松本良順も「日新館」に滞在していた。土方は松本の治療も受け、またすすめられた東山温泉での治療などもした。四月三日(4月25日)下総流山に於いて新選組(甲陽鎮撫隊)局長近藤勇が西軍に投降した。散り散りになった隊士は、利根川を銚子まで船で下りて磐城の平潟港に上陸、棚倉・白河・勢至堂峠を経て会津に入った者、また陸続きに辛苦を重ねて会津へ入った者が「土方、若松に入る」の報に集結してきたという。その数百数十名に達したというが、少し多いように感じられる。

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閏四月五日(5月26日)白河方面への出陣が命じられるまでの間、土方歳三は天寧寺住職と共に松平容保に拝謁し、近藤勇の墓建立を願い出て戒名を書いてもらったという。また、五日の前日、隊士一同を率い、容保に拝謁し歓迎の宴を受けたとも伝わる。

会津若松で奮闘した土方歳三

〈会津に於ける「新選組」〉

閏四月五日に白河方面への出陣命令を受けた新選組は、治療中の土方歳三に代わり元三番隊隊長(京都時代)斎藤一こと山口二郎が隊長代理となり、六日に若松を出陣する。

清水屋

まちに歴史あり

東山温泉旅館位置図

土方歳三が泊まった所、おけいの墓

東山温泉旅館位置図

〈近藤勇の墓、建立される〉

近藤勇は四月二十五日(5月17日)「板橋」で処刑された。土方歳三はこの日、今市から会津西街道を若松めざして、隊士らに護られて負傷した身で進んでいた。その後に近藤勇の死を知ったものと思われる。

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流山で分かれた隊士も続々と若松に入り、新選組は天寧寺を本陣として滞陣した。土方歳三は住職を伴い城に登り、容保に拝謁し戒名を書いて戴き、愛宕山の中腹に近藤勇の墓を建てたという。

〈天寧寺〉2003年5月3日撮影

天寧寺

〈新選組本陣跡=天寧寺〉

1969年(昭和44年)5月6日に愛宕神社を訪れた時に、近藤勇の墓に参ったが、その時に天寧寺を訪ねなかった事を悔いていた。この日は、すでに新しく代わっていまの建物・境内も変わったと思われる。

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土方歳三が若松に入る以前に、山口二郎が来ているとの説もある。新選組が「甲州・柏尾の戦い」に敗れ「五兵衛新田」の金子邸に再集し、再決起を図ろうとしている時、会津藩士が数度にわたって訪れている。その面談の中で「会津行き」が語られた事はあったものと思われる。その時に山口二郎が会津に向かったのだろうか。会津藩と共に西軍と戦う新選組については、その都度追っていくことにする。

天寧寺 2003年5月3日撮影

天寧寺

〈会津に新選組局長・近藤勇の墓建つ〉

飯盛山より若松城下跡を望む

(上)1969年5月6日撮影

(下)2004年8月29日撮影

飯盛山

〈愛宕神社〉

駅からバスに乗り東山温泉行き15分くらい

バス停に一緒に降りたお婆さんに道を尋ねると偶然にも愛宕神社のオカミさんだった。道々の話では首が埋まっていると言う。

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鶴ヶ城から東山方面へまっすぐ進むと山にあたる。細い路を(あぜ道)歩き坂道をのぼりつめると愛宕神社の鳥居に出た。境内に松平容保の像があり、神社の脇の草に覆われた細い道を登っていくと近藤勇の墓に出た。

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左の松は葵の松と言って一本の松が二股に別れていて、その木を松平容保が植えたと伝えられている。

1969年5月6日撮影

愛宕神社

私は山腹に淋しげに建つ近藤の墓の前に立っていると、近藤・土方そして松平容保の人間の連ながりが、グッと感じていた。

(上)1969年5月6日撮影

(下)2002年5月4日撮影

近藤勇の墓

〈新選組局長・近藤勇の墓〉

〈説明文〉

愛宕山の中腹に在り、新撰組副長土方歳三の労により会津藩の手によって建立したと言われる。墓の正面には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号とその上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。会津の地に近藤勇の墓を建てた理由としては、容保公が京都守護職中、新選組はその支配下にあり、挺身幕府のために力を尽くしたこと、土方歳三一行が会津に来て戦闘に参加して居ったことが挙げられる。近藤勇は後、千葉で薩長の手に捕られ首をはねられた。遺体は縁者が三鷹市大沢の龍源寺に埋めたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた後、何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われている。

1969年5月6日撮影

近藤勇の墓

土方歳三が松平容保公に懇願し、天寧寺の39世吟月雲歩和尚から貫天院殿純忠誠義大居士の号を授与された。この墓碑は土方が建立したものと伝承される。右隣に歳進院殿誠山義豊大居士と認められた土方歳三の慰霊碑が建てられた。

2002年5月4日撮影

貫天院殿純忠誠義大居士

〈新選組友の会ニュース〉

NO148に掲載された「会津戊辰白河戦争と新選組」(私が書いた)から

2015年7月15日発行

会津戊辰白河戦争と新選組

戊辰戦争研究会・小論文コーナー

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