〈堀田正睦銅像〉〈佐倉城趾〉
〈碑文〉
日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、文化八年(1810年)八月一日に生まれ、文政八年(1825)に佐倉藩主となった。天保四年(1833)に藩政改革を宣言し、文武の翼励によって藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成した。天保十二年(1841)に幕府の老中に就き、安政二年(1855)には老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられた。「攘夷」が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして、開国を唱えアメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。元治元年(1864)三月二十一日、佐倉城中の三の丸御殿で卆し、甚大寺に葬られた。のちに、法号から「文明公」と称せされ、広く愛されている。
平成十八年(2006年)十月二十一日

〈佐倉城址・一の門跡〉
堀田正睦は、江戸城の東方の守りとして築造された「佐倉城」の藩主に就任。「開明的」な幕府の老中と称された。
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城は「鹿島川」右岸の「高崎川」の合流点を見下ろす約30メートルの台地を利用して本丸、二の丸、三の丸を配置し、それぞれ空堀を土塁によって区画されている。麓の低地には出丸を配し、広い水堀で囲んである。
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「本丸」に入るところにある「一の門跡」
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「一の門跡」
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間
本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸で天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。

〈本丸跡〉〈銅櫓跡〉
かなり広い本丸跡である。
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〈銅櫓跡〉
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り。この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したもので元は三階(櫓)であって、太田道濯が造ったものといわれている

〈三の丸跡〉
右端の坂は「出丸」へ続く路である。

〈三の丸の空堀跡〉
左の駐車場は「侍屋敷跡」といわれる

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