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〈井伊直弼、「大老」となる〉

会津戊辰戦争(壱-一)

〈武家屋敷跡〉

〈井伊直弼、「大老」となる〉

老中堀田正睦が辞任すると、四月、彦根藩主井伊直弼が紀州藩や「大奥」などの後押しによって「大老」に就任した。大老は筆頭老中よりも上で、将軍に次ぐNo2の席であり、老中溜間詰めの大名に相談する事なく、独断専決でき、将軍補佐も実権あるものであった。安政五年(1858年)の事であった。

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十三代将軍徳川家定は世嗣がなく、心身ともに虚弱であったため、就任早々から次期将軍継嗣問題が起きていた。安政四年にそれが表面化し、水戸藩の徳川斉昭、越前藩主松平慶永らは「一橋家」の一橋慶喜(斉昭の実子)を推し、井伊直弼らは血統上の理由から紀州藩主・徳川慶福(よしふみ)を推する動きが活発になってきていたのである。

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井伊直弼は「大老」に就任すると、「徳川慶福」(のちの家茂=いえもち)を将軍慶継嗣と「公表」するのである。独断専決であった。(安政五年四月二十三日)。さらに前筆頭老中堀田正睦が苦心した、アメリカ総領事ハリスとの「日米修好通商条約」を天皇(朝廷)の「勅許」を得ないまま、締結してしまうのである。諸外国も遅れじと「オランダ」「フランス」「イギリス」「ロシア」も要請し、井伊大老はこれも独断で「締結」してしまった。(安政五年六月十九日)。

井伊直弼

〈「日米和親条約」締結される〉

この「条約」は安政五年一月十二日、堀田正睦とハリスで合意し、堀田は上洛し二月九日御所に参内し、「勅許」を願い出たが、ついに下りることなく終わってしまったものであった。それを井伊大老は六月十九日「締結」し、二十五日には将軍継嗣をも決してしまった。「和親条約」時には「勅許」は問題にならなかったが、その間、諸藩(特に西国雄藩=薩摩・長州)は藩士らを上洛させ「朝廷工作」を活発に行い、政治の舞台へ引き込もうとしていた。

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井伊大老は政革を独断するには、「討議」を重視する老中ら重臣が不必要であったのか、五月六日「大目付」の土岐頼旨と「勘定奉行」川路聖謨(としあきら)を左遷し、六月二十三日には堀田正睦を罷免、七月五日には、「不登城」を押して登城し、井伊大老の独断を詰問した徳川斉昭、松平慶永、尾張藩主徳川慶勝らを処分するのである。

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井伊大老が進めた「条約締結」「将軍世嗣」も大局的には決断は誤りではないと思われるが、「政治姿勢」が問題であったのではないだろうか。

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井伊大老は「朝廷」や「幕府」が、諸大名の意見に左右されるようになっては、国家の大乱を招く―の強い信念の下に、絶対の自信の下に「独断専制」を実行した。しかし、八月八日、「朝廷」は条約の違勅調印と斉昭・慶勝らの処分を詰問する内容の「密勅」が水戸藩に下したのである。「戊午の密勅」と言われるものである。しかも内容(勅書)を諸藩に伝達せよともあった。数日後、同様のものが幕府にも下された。「安政の大獄」「桜田門外の変」へと世は移っていくのだが、この辺りの事は、拙者の「水戸天狗党」に詳述、参照。

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「戊午の密勅」の幕府への返納に関して水戸藩は大きく揺れ、その対応への処分を幕府は行おうとするが、会津藩主松平容保は「問罪」を中止させるよう活躍し、その言動が「幕閣」に大きく評価されるようになっていったのである。

〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉〈江戸「本行寺」〉

幕末人物終焉の地(6- 6)井伊直弼 / ザ・戊辰研マガジン
井伊直弼は、「安政の大獄」を引き起こし短気で強引な人物という印象を持たれ、朝廷を無視して屈辱的な開国をした奸臣であると批判する意見がある。しかし本当にそうであろうか。 孝明天皇をはじめ、朝廷の外国嫌いは度を超えていた。直弼の調停工作は失敗に終わり、勅許を得ずに条約を結んでしま…

井伊直弼2

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