〈池田屋騒動〉〈明保野事件〉

〈池田屋騒動〉起きる
「八・一八の政変」前後、平野国臣らの「生野の挙兵」「十津川挙兵」も鎮定され、起死回生を狙った浪士・志士は長州へ下った者の外に、京洛に潜り秘かに討幕の策を練っていた。
「堺町門」から追われ、長州藩は京の藩邸には「留守居役(外交)」が残っていた。何とか再び京洛において長州藩の力をと目論み、桂小五郎をはじめ相当数の藩士を秘かに潜入し失地挽回を狙っていた。また、過激浪士も京に潜入、倒幕への足掛かりを求めていた。
「禁門の政変」でその存在感を示した守護職松平容保預りの「新選組」は京洛の治安を守るべく浮浪の取り締まりを強化していった。その活動をする中で、長州・浪士らによる京洛の混乱を企てていることを古高俊太郎捕縛によって知ることとなり「池田屋騒動」へとなっていくのである。(詳細は「幕末・新選組(弐)」を参照)
この「池田屋騒動」事件が四日後(7月12日)長州に届く。藩は激昂する。約一ヶ月半、上京し「蛤御門」の変となっていく導火線であった。
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なお「池田屋騒動」は「幕末新選組(中)」に詳述する。
〈池田屋古写真〉
〈明保野事件〉
元治元年(1864年)六月五日(7月8日)の「池田屋騒動」の五日後六月十日(7月13日)幕府は守護職・所司代はじめ、諸藩に市中取締の強化の命を出した。「未だ残党もこれあり、なかには自分の姓名を偽り藩邸あるいは民家に潜みおり候儀も計り難く、万一怪しき体のものこれあり候わば各藩または所々の役人どもにて召し取り差出すべく、もっとも徒党の一味の聞えこれありは候はば探索の上召取り差出すべく候事」
〈会津藩士・柴司之墓〉
六月十日(7月13日)幕府から市中取締強化の命が出た。町役人から「明保亭」に長州藩士らしき者が集まっているとの情報が新選組に入った。池田屋騒動から日も浅く百傷者、病者があり、手不足のため守護職へ応援を頼み、会津藩士七名が同行して「明保亭」へ向かった。しかし、報告のあったそれらしき一味の姿はなく、若い侍が一人酒を飲んでいたが、新選組の制服をみると突然庭に飛び出し逃げようとした。会津藩士柴司が追いかけ槍を突き刺した。これが土佐藩士の麻田時太郎と名乗ったことから問題が起きた。(詳細は前述の資料参照)
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柴の葬儀には新選組から土方歳三らが参列し、武田観柳斎と浅野藤太郎が弔歌を詠んでいるという。
〈明保野亭跡〉
元、産寧坂にあったものを移転復元したという。
※産寧坂(三ねい坂ともいう)の写真は「京都編」にあり。
〈明保野亭の茶室〉
「池田屋騒動」が起きるまでは、長州藩士がよく集まっていた明保野亭である。

〈常楽寺=土佐藩士浅田時太郎の墓〉
踏み込まれた時、何故、とっさに逃げ出したのか謎であるが「八・一八の政変」の直前に会津藩と同盟を結んだ土佐藩である。「池田屋騒動」で名を知らしめた新選組であっても、突然の逃避は疑いを誘うものであろう。しかし、槍を突き出したのが会津藩士と知り、土佐藩士と名乗ったというのがそれも不思議である。しかし、その後の麻田も武士としての行動をとっている。
「池田屋騒動」以降、新選組、見廻組らの市中取締巡回は「効」を現わし、次第に市中は穏やかさを取り戻し始めていった。

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