〈甚大寺=堀田正睦の墓〉

甚大寺=堀田正睦の墓会津戊辰戦争(壱-一)

〈旧堀田邸〉

〈甚大寺=堀田正睦の墓〉

 

元和元年(1615)慈眼大師天海大僧正が比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺である。元禄十四年(1701)に山形城主であった伊豆守正虎(佐倉堀田家三代)が開墓となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。しかし、延享三年(1746)堀田相模守正亮(王代)が、佐倉城主として転封されに際し、同年八月現在の地に移したのである。安置されている本尊、十一面観音菩薩は、堀田正倫(まさとも)の御念持仏で、わが国彫金界の奉斗である佐倉出身の津田信夫の作である。また金毘羅尊は、堀田相模守正順(まさのり)(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として四国象頭山より観請したものである。現在、毎月十日は金毘羅尊の縁日として近隣町村からの参拝者を迎えている。大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は、坂東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和六十三年(1988)に移築したものである。享保十一年(1726)六月、当時下総の国を挙げて建立されたものである。境内奥には堀田家累代の廟(びょう)が静かにたたずんでいる。

昭和六十年(1985)三月

甚大寺

〈九代堀田正睦の墓〉〈甚大寺〉

父は七代正時、生母は源田芳(芳妙院)。文政八年(1825)八代正愛(まさちか)の跡を継ぐ。天保四年(1833)渡辺弥一兵衛を年寄役に抜擢し潮田監物の献策をいれ、藩士の借財を一掃するとともに、厳しく質素倹約の制を課して藩風を一新した。また西洋の文化を積極的に受け入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭方医の佐藤泰然や英学の手塚律蔵を佐倉に招くなどして佐倉藩の近代化を遂げ、佐倉をして西の長崎と比肩する文化の地とした。安政二年(1855)老中首座となり、諸外国からの開国要求という難局に当たって、日本を開国へ導く大役を果たした。しかし、十三代将軍家定の継嗣問題で大老の井伊直弼と対立し、安政六年(1859)隠居を命じられ、さらに開国を罪とし蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒した。大正四年(1915)従三位を追贈された。

平成六年(1994年)

甚大寺2

〈堀田正倫の墓〉

堀田正俊は後の堀田の祖で正盛の三男として寛永十一年(1634)に生まれ将軍家光の命により、春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古河城主を経て大老に栄進した。正睦は後の堀田第九代・文化七年(1810)に生まれ、佐倉城主にして寺社奉行、大阪城代・老中を経て老中首座・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。正倫は正睦の四男として嘉永四年(1851)に生まれ、最後の佐倉城主となり廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。

昭和五十六年(1981)二月四日

〈佐倉順天堂跡〉〈順天堂記念館〉

堀田正睦

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