〈神保修理「切腹」となる〉

興禅寺会津戊辰戦争(弐-一)

慶喜恭順決定後の容保動向

〈神保修理「切腹」となる〉

 

〈興禅寺=修理の墓〉

神保修理は家老神保内蔵之介の長子で、会津藩士の中でも諸藩の動勢に詳しく、西軍に対してもその認識は造詣深く、諸藩士とも多くの士とも交わりも深く、容保も将来を嘱望していた。 容保の「上洛」にも同行し、海外の情報、文明を学ぶため長崎に派遣されるほどの秀才であった。 幕臣の勝海舟とも友人関係にあったという。

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しかし、「鳥羽伏見の戦い」となり、神保修理は急ぎ長崎から旧幕軍の本営・大阪城に舞い戻り、執務に励んでいた。 だが、旧幕軍は戦いに敗れ、大阪城に撤退した。 城内に於いて「大評議」が行われ、その席上、徳川慶喜は「一兵まで戦う」と宣言しながら、敗走続ける旧幕軍に「戦意」を失くしていた。 その評議の休憩時に廊下で出会った慶喜に神保は「いったん東帰し、戦線を整え戦ったほうが得策」と進言する。この一言が後々問題となっていった。

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一方、松平容保も「評定」の席上での慶喜の「最後の一兵までも」の言葉に不安を感じていた。 そのため修理を召し出し「別の間」に待機させていた。 しかし、いつまで待っても「呼び出し」がない事に「いぶかり」容保を探すが見つからず、すでに「城を脱出」を知り、その行為を引き止めようと後を追うが出会うことなく、ついに江戸へ向かってしまう。 浅羽忠之助と共に——。

興禅寺

神保修理

神保修理

神保修理

〈神保修理の墓〉〈興禅寺〉

一月六日(1月30日)大阪城に於ける「大評定(軍議)」で徳川慶喜の「最後の一兵まで」の言葉に、七日「いざ出陣」と意気上がる東軍は、総大将の慶喜らが不在と知りその憤懣は大変なものであった。更に神保修理までも見当たらない事に会津藩士は、神保が「そそのかして」江戸へ帰したとの思いが募り、将軍、藩主の「責」を追求することはできず、その怒りの鉾先は神保に集中してしまっていた。

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江戸に帰還した藩士たちは、松平容保の言葉にも、神保に対する訝る気持ちは収まることはなかった。そんな神保の身を案じた徳川慶喜、勝海舟、松平容保の慰撫に、ますます疑義がふかまるばかり、ついに藩士らは容保にさえも、神保の処分を迫ることになっていたのである。藩士らは三田の下屋敷へ神保を移しついに「切腹」を命じてしまった。

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若き優秀な会津藩士が、また一人失うことになった。

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この興禅寺には、後に「戊辰戦争」の会津藩の責を一身に背負って西軍の処断に切腹した家老「萱野権兵衛」の墓も建つ。(後筆する)

松平容保、会津へ

神保修理

興禅寺

資料=会津戦争百話

興禅寺

 

 

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