長岡城奪還へ向けての各地の戦い③狩谷川の攻防、久田の戦い

出雲崎の西軍が駆け付けた山々会津戊辰戦争(参-二)

長岡城奪還へ向けての各地の戦い②

長岡城奪還へ向けての各地の戦い③
狩谷川の攻防、久田の戦い

 

〈新潟方面の動向〉

五月六日(6月25日)越後の五藩(新発田・村上・黒川・三日市・村松藩=長岡藩はすでに加盟=四日に会津藩と同盟結ぶ)が新発田城下に集まり、奥羽越列藩同盟に加入することを表明して以来、米沢藩、庄内藩、山形藩も来援し新潟港に軍事局を設置し、総督として米沢藩家老色部長門が就任し、会津・水原陣屋、酒屋陣屋とも密に連絡を取りながら同盟軍の軍需物資を管理し、また防備陣営も敷いていた。

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寺泊への艦砲射撃(五月二十三、二十四日)などもあり、新潟に布陣する会津・米沢藩は六月四日(7月23日)浜辺に於いて色部長門総督はじめ、会津藩家老梶原平馬、会津藩抱えの武器商人スネルらが監席し閲覧する中、合同の軍事調練が行われた。

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一方、列藩同盟したものの新発田藩(藩主・溝口直正、十万石)は元々勤王色が強い藩で、雄藩である米沢藩などの説得や孤立を恐れ加盟したのである。同盟軍の再三の出兵要請に中々応じなく、同盟軍の中からも疑念が生じ始めていた。そのため藩主溝口直正は人質となって米沢藩に身柄を預けようとする。そのため同盟軍は警戒網を敷いた。六月五日(7月24日)の事である。

会津戊辰戦史

〈会津・米沢藩面談する〉

六月四日(7月23日)大面に滞陣の米沢藩陣将甘粕継成は、三条に滞陣の会津藩越後口総督一瀬要人を訪ね、越後に於ける会津藩に対する各村民の不評改善の面談が行われた。諸隊の転陣する際、兵糧・兵器等々の運搬には村民、馬などの供出が(協力)なくては事は進まない。そのために脅しや強要が行われたのであろう。また宿陣中の素行も乱暴などがあったものと思われ、同盟軍に対してそのような感情がむき出しにされたのであろう。

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この後の会津藩のそれらの素行等々が改まったかどうか定かではない。会津藩全体が軍資金が不足しており、村民、馬などへの料金が支払われたとは思うが、低賃金などの不満も解決されたのであろうか。

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会津藩にとって余りにも広範囲な数多い藩境を抱えていた事が矢張り膨大な資金がかかりすぎていたのも大きな一つの要因であった。

会津・米沢藩面談

会津・米沢藩面談

〈刈谷田川を挟んだ攻防戦〉

六月二日の今町攻略の戦いに勝利し周辺の村々に守備・宿陣した諸隊の米沢・長岡藩は四日片桐より傍所に進軍、刈谷田川の対岸鹿熊に布陣する西軍と砲戦を展開する。今町を攻略された西軍の反撃は激しかった。六月五日(7月24日)も続いて激しい砲戦が続行する。西軍は秘かに大里と福井の間に強固な大規模な胸壁を構築中であったのである。そのためには同盟軍の進撃を何としても阻止しなくてはならない。堤防の陣地から攻撃する同盟軍が頭を上げる事ができない程の砲銃の反撃であったという。同盟軍は一度は渡河し、側面攻撃するも撤退されている。

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六月六日(7月25日)西軍は大里の大胸壁が完成した。秘かに退却し、その胸壁に布陣する。翌日から長きに亘って攻防戦が展開されていくことになるが、今町の戦いは一旦終えることにする。

刈谷田川を挟んだ攻防

刈谷田川を挟んだ攻防

〈新発田城址〉

武器購入のためか若松城より出張していた家老梶原平馬、公用人(若年寄)手代木直右衛門は米沢藩(家老・総督)色部長門に面談を申し入れ、情況などを語り合った当然新発田藩の動向も話し合ったものと思われる。

新発田城址公園

〈新発田藩窮地に陥る〉

六月七日(7月26日)奥羽越列藩同盟の本営(白石城)に定詰していた会津藩士平尾豊之助は、新発田藩が列藩同盟を離脱する動勢を聞き、仙台藩士鴫原長太郎と共に、また米沢藩士も同行し(長井藤十郎ら)各々隊を率いて新潟に出陣した。

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これを知った米沢藩家老は(色部長門)会津藩士一柳幾馬に新発田藩の動向を聞くが、一柳は新発田に滞陣していた柴守三を招き色部長門に報告させた。会津藩では春より新発田城下や五十郎などに宿陣し、疑念を伺っていたりしたが越後方面の戦いが展開されるに及び、監視的宿陣を解き出陣したのである。その滞陣中の柴守三は委細を語ったと思われるが、会津藩の疑念は消去していない事も伝えたかもしれないが、西軍との激戦展開中に新たな戦いは避けるべきであった。

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六月八日(7月27日)米沢藩色部長門は会津藩家老梶原平馬、若年寄手代木直右衛門、仙台・米沢藩士らを招集し新発田藩の取り扱いについて評議する。席上、平尾豊之助は断固討伐を唱えるが、他は皆、今の情勢から反対を唱え、ついに仙台藩鴫原長太郎も納得し平尾一人が決行を迫るが討伐は実施されない事に決定したのである。

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しかし、この後も新発田藩の出兵は実施されず騒々しい情況が続いた。

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新発田討伐を評議で否決された会津藩士有泉寿彦(青龍二番士中組隊長)仙台・鴫原長太郎、米沢藩・三瀬清蔵の両隊長と新発田・五十野の本営に着陣した六月九日(7月28日)再び新発田藩家老溝口内匠、重臣山崎重三郎を呼びつけ、今までの約定が実施されない事を責め、なお当時藩内で農民騒動を引き起こしている首謀者を差し出すよう申し入れた。新発田藩が出兵できない事情の一つに上げていた農民騒動の結着を狙っての事であった。

〈新発田藩出兵する〉

六月十日(7月29日)新発田藩は家老溝口内匠は前日の評議で約束した農民騒動の首謀者二人を連れて、同盟軍の本営を訪れるが、しかし、その二人は首謀者でない事が判明し、同盟軍の諸隊長は怒り心頭にし、新発田藩の姦詐に憤りをあらわにして送り返した。

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その夜再び溝口内匠が訪れ、明日の出兵を実施し同盟軍に謝罪すると言ってきたのである。

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新発田藩の疑念を晴らし信頼の回復を得るには出兵する事が致し方なしと藩の評定で決定したのであろう。

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六月十一日(7月30日)新発田藩は約定通り、同盟軍本隊の在る見附に出陣する。会津・青龍隊の有泉寿彦隊長は一隊を率いて水原陣屋に帰陣し宿陣する。仙台・米沢藩も一隊と共にそれぞれ出陣する。

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ひとまず新潟方面の動勢を終えて置く。

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六月二日(7月21日)今町を攻略した同盟軍の主力部隊は、いよいよ長岡城奪還へと動いていくのだが、長き戦いとなっていく。その前に再び海岸沿線を追っておきたい。

〈再び日本海沿岸の戦いへ〉

六月三日(7月22日)与板周辺の北野村に布陣している会津藩陣将萱野右兵衛隊に西軍が攻撃してくる前、早朝島崎に陣営した会津・結義隊(井上哲作隊長)は出雲崎から進軍し山田に布陣する西軍を撃滅しようと出陣した。まさか、その後に西軍が攻撃してくるとは考えていなかったようである。

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しかし、山田に入るが西軍の姿は見えず空しく帰陣する。萱野隊が襲撃された事を知る。翌日に岩方へ転陣する旨を伝え聞いた。姑息な萱野隊をどう思ったか—。

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一方、同盟軍本営と共に布陣していた朱雀二番寄合組の半隊は与板口の出陣を命じられ、六月五日(7月24日)見附を出陣し地蔵堂に夜遅く着陣する。萱野右兵衛は一部を北野の守備に残し岩方に転陣、滞陣する。

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朱雀二番寄合組は七日、地蔵堂を出陣し北野に入り宿陣する。さらに会津越後口総督一瀬要人も三条を六月八日(7月27日)出陣し地蔵堂へ転陣してきた。一瀬要人は六月九日(7月28日)各諸隊の隊長を招集し軍議を行った。与板城攻略が失敗していたが、西軍の海道軍も出雲崎からさらに進軍し久田辺りまで進んでいた。その前進を阻止するため寺泊布陣の佐藤織之助、結義隊と共に配下の西郷勇右衛門(家老)らの一隊を出陣させる事を定めた。

〈同盟軍出陣〉

六月九日の地蔵堂での軍議で定まった西軍への攻撃に出陣する西郷勇右衛門の隊、結義隊佐藤織之助の隊は六月十二日(7月31日)出陣日と定め、前夜衝鋒隊の山田陽次郎隊、庄内藩銃隊(服部十郎右衛門)水戸諸生党、旧幕軍新遊撃隊らとさらに三根山藩も参戦となり、十一日の夜のうちにすべて島崎を出陣した。諸隊の進撃路も定めていた。

一方、寺泊に滞陣していた結義隊、庄内藩らは島崎方面からの進撃に呼応し十三日軍議を行い大和田に進み、志戸橋辺りの地を選び山と海岸付近に胸壁を築き(二重に築く)滞陣(野営)する。

与板方面略図

〈久田の戦い〉〈出雲崎・乙茂周辺〉

話を先に進めてしまったが、六月十二日(7月31日)同盟軍は三方面から進軍し、旧幕軍新遊撃隊、庄内藩、結義隊は村田山に集結して久田の西軍の斥候隊が守備する撃ち破るが脇野山より西軍の反撃が激しく、三根山藩が応援に駆けつけるが激しい砲銃撃に、ついに撤退となり寺泊まで退いてしまった。

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同盟軍は夜行軍をして落水まで進軍、西軍の姿見えずさらに進軍、斥候が戻り村田にも西軍は布陣なしと聞き、明け六ッ(午前六時)すぎ、さらに前進し久田街道に差しかかると結義隊(渡部英次郎)へ攻撃を仕掛けてきた。この一帯は山々が連なり、その裏に田畑等々が広がり身を潜めるものはない。同盟軍にとって不利な地形であった。

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しかし、三方より進軍した同盟軍は次々到着し、攻撃を開始、西軍を圧倒する勢いとなっていくが出雲崎より駆けつけた西軍の援軍が到着し、ますます激戦となる。日没が迫り双方が退いた。

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出雲崎の西軍が駆けつけたという方面の山々。
2003年10月14日撮影

長岡城奪還へ向けての各地の戦い④ 与板城攻略へ

出雲崎の西軍が駆け付けた山々

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