片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺
〈佐川官兵衛、片見村へ〉
佐川官兵衛が陣将となって率いる諸隊を追っていく。
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与板城下に宿陣・滞陣していた朱雀四番士中組らの諸隊は、小千谷に布陣する西軍の山道軍の侵攻を警戒し、予防陣形を整えていた。
(1)関原=佐川・土屋の諸隊、新遊撃隊
(2)塚野山=金田隊
(3)深沢=朱雀隊
(4)衝鋒隊・桑名藩・会津浮撃隊
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五月二日、与板・脇野等々に宿陣していた諸隊は朝五ッ(午前八時)頃、土屋惣蔵の隊先鋒陣として出陣、昼頃関原村に入り、それぞれ軍議で定めた通り昼食後出陣、片見村へ斥候隊を出し、西軍の動勢を探索、宿陣となる。
〈奥羽列藩同盟成立〉
五月三日(6月22日)正式に二十五藩による奥羽列藩同盟が仙台領白石に於いて成立した。越後では、前日長岡藩家老河井継之助と西軍・山道軍岩村精一郎の会談」が行われ、決裂していた。そんな情況の中、西軍が片見に侵攻し、会津藩との戦いが展開されたのである。
〈片見の戦い〉
五月三日(6月22日)払暁、本道を進軍した西軍・高田藩と片見で砲撃戦が始まった。しかし、高田藩は破れて、追撃する会津藩諸隊は鴻の巣でも勇闘激闘で西軍を駆逐し、勝利成るか見えた時、塚の山を攻略した西軍は会津諸隊の背後に浸出し、薩摩・長州の精兵が決死の反撃を開始、初陣の多かった会津諸隊もついに支える事できずに脇野めざして退却となった。この時、浦方面へ敗走した会津諸隊は信濃川を渡り、長岡領内に退いた。長岡藩では敢えて咎めず厚意を尽くしたという。
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塚の山に布陣した金田百太郎は負傷し、農家に助けを求め潜伏するが発見され斬首されたという。
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一部の隊が浦村から信濃川を渡り、長岡藩領内に至ったが、殆どは脇野へ退いた。脇野に集結した諸隊はその夜は警戒網を張り宿陣するが、翌四日長岡城下をめざして出立し、夕刻に着陣する。
〈会津藩諸隊、長岡めざし出陣相次ぐ〉
五月一日(6月20日)水原陣屋の陣将として三月十二日に会津若松を出立し水原に滞陣を続けていた萱野右兵衛の一隊は小出島、小千谷方面の戦局悪化の報に出陣に決し、出陣する。新津、加茂、三条、見附、上條、長岡へ進軍し、五月十日の妙見の戦いに参戦していく。上條に入った時、この日戦いがあったか、その後に着陣したようである。ここで萱野隊の動きをまとめる。
萱野右兵衛率いる一隊が雨の中行軍し、信濃川を渡り、上條村に入った五月六日(6月25日)は、すでに会津藩と長岡藩の同盟が成立し、奥羽越の列藩同盟へと流れていく時期であった。この日、越後五藩が新発田城下に集合し、列藩同盟への加盟が米沢藩の出席の下に決定されたのである。そのため萱野らに対する長岡藩の対応も変わっていたのである。

〈慈眼寺山門〉
説明文〈岩村・河井会見の処〉
明治元年(1868年)五月二日、長岡藩家老河井継之助が藩主の嘆願書を持参し、軍監岩村精一郎と講和談判を行った場所である。岩村軍監らは長岡藩の嘆願書を戦備のため、時を稼ぐ謀略と考え披見もせず無条件降伏をせまった。このため談判は決裂し、長岡藩は徹底抗戦を決意した。これにより長岡藩をはじめ北越諸藩が奥羽列藩に加わり奥羽越列藩同盟が成立し、北越は戦火の場となった。慈眼寺には談判の場所が当時のまま保存されており、ほかにも戦闘絵図、その他の関係遺品が残されている。
2000年8月18日 森本氏から戴いたもの
〈慈眼寺山門=仁王門の表・裏〉
(上)表面
(下)裏面
〈会見の間の資料〉
長岡市民の間では、河井継之助に対する評価は半分に分かれているという。
(1)薩摩・長州の私怨による新政府樹立によって起こされた戊辰戦争である。それに対して長岡藩を戦火から守るために武装中立を揚げ、理想を持った河井継之助の政事。商業等々は民家にも貢献した
(2)戦を起こし、市中を戦火に見舞わされた
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〈住職〉
私は評価は避けたい。但し、市民は半々に分かれているので、この慈眼寺も拝観料はとらないし、個人の評価の語りも避けて欲しい—と語られていた。
長岡藩家老河井継之助、小千谷階段決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立
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