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松平容保会津鶴ヶ城へ帰国する

鶴ヶ城1969年撮影会津戊辰戦争(弐-三)

江戸残留の会津藩士と新撰組動向

〈はじめに〉

この「弐-三」編は松平容保が江戸から二月二十二日(3月15日)に若松城へ帰国してからの会津藩の動きを追っていくことにする。「武備恭順」と藩論が定まってから「越後」「日光」「白河」方面への出陣が展開されていくが、それらは「各編」に記述していくことにする。従って、この編はあくまで「若松城下」中心の史跡を追っている。

鶴ヶ城パンフレット

〈松平容保、若松城(鶴ヶ城)に帰藩する〉

慶応四年(1868年)二月十六日(3月19日)江戸城・和田倉門内会津藩上屋敷を出立し、二月二十二日(3月15日)若松城に入った。「万感胸に熱く」こみあげてくるものがあったものと察せられる。

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二月十日、幕閣の主要な者たちが、幕府から「登城禁止」の命が下され「主戦論者」が江戸から排除された。容保を始め、実弟の桑名藩主松平定敬、老中(備中松山藩主)板倉勝静、幕府陸軍・海軍総裁小栗忠順ら二十四名の重臣たちである

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二月十一日(3月4日)容保は上野寛永寺の「輪王寺宮」に哀訴状を、更に「孝明天皇」の「宸翰」の写しを添え提出し十六日には実兄で京都に滞在中の越前藩主松平春嶽に「朝廷への謝罪状」を託し、帰国の途に着いたのである。

1969年5月6日撮影

鶴ヶ城1969年撮影

(資料=滝沢本陣)

松平容保が「桜田門外の変」のあった万延元年(1860年)に江戸に出府してから「八年ぶり」の帰国であった。砲兵隊隊長山川太蔵らの「北千住」の渡しで見送りを受けた時の事が頭をよぎったかも知れない。江戸から会津若松までおよそ六十五里(約260㎞)であるという。随行する「先備(さきぞなえ)隊」(頭=千葉権助)約十七名が容保と共に会津へ向かい六日間で到着したのである。容保は若松城下に到着すると「謹慎」の身を考慮し「御薬園」に入ったという。が、いつまでここに滞在したのかは分からない。この御薬園には四月になって唐津藩世子・小笠原長行が若松に訪れ、居住する。

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一方、容保は帰国する前に、既に家老萱野権兵衛を一足先に帰国させ「藩政」を司どらせていた。まだ若き藩主となった松平喜徳(徳川慶喜の弟)を補佐し、容保が帰国するまで「藩政の改革」を行っている。勿論、帰国にあたって十分に容保と面談してあったものであろう。

陸奥之内会津城絵図

〈松平容保、若松城に入る〉

二月十六日(3月9日)江戸を出立した松平容保は六日間で会津の地を踏んだ。随行してきたのは家老内藤介右衛門であったのだろうか。どの街道を進んだのか分からないが、おそらく「勢至堂峠」を越え「福良」村(本陣)を通り「滝沢峠」を下って入ったものと推察する。峠から見た会津盆地は容保に何を語らい、何を思わせたのだろうか。

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「朝賊」の名を一方的に被せられた無念の思いは強く胸来し、会津盆地を西軍に侵されたくない思いが沸々と湧き上がってきたことであろう。

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松平容保を迎えた若松城下も「汚名」を晴らす思いが起きたものと思われる。十四日には城内に於いて若き藩主松平喜徳は「評議」をもって、容保に政務を託すことを宣言した。

若松城天守閣・鉄門1969年5月6日撮影

若松城天守閣・鉄門1969年5月6日撮影

〈容保「評定」を開く〉

容保は「恭順謹慎」の嘆願書を提出しての帰国であったが、若松城入城後、重臣らと評議も重ねたであろう。

二月二十七日(3月20日)「大書院」に藩士を招集し「朝敵」の雪冤を告げた。喜徳藩主は「戦時の心掛け」を訴えた。「恭順謹慎」を表明している容保の胸中を代弁するかのように、もし西軍侵略の時には、死を覚悟しての気構えを訴えた。

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容保は郭外の「御薬園」に入り、謹慎するも「政務」を引き継いでいるのであり、長い期間「御薬園」にいたとは考えにくい。

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(右下)の胸像は「愛宕神社」境内に建てられたものである。

愛宕神社境内容保胸像

〈容保、帰国へ〉

〈説明〉(武家屋敷内の天満宮神社前に建つ案内板より)

〈松平容保〉

明治維新に於いて幕府側の責めを一身に背負い最後まで戦った悲運の藩主である。文久二年(1862年)尊王攘夷の嵐が吹き荒れ乱れた京都の治安を取り戻すために幕府は京都守護職という特別職を作り、これを容保に任命した。すでに幕府の力も衰えをみせており、非常に困難な任務であったにもかかわらず藩祖の遺訓を守り容保はこれを引き受け、藩をあげてその任務に当たった。一千名を超える藩兵と共に今日に駐留し、公武合体のために全力を尽くした。この時、有名な新選組も会津藩預かりとなって活躍する。京の町は治安を取り戻し「蛤御門の変」などを通じて容保は時の天皇孝明帝の絶大な信頼を得るに至った。しかし、慶応二年(1866年)将軍家茂、孝明帝と相次いで急逝、世情は急激に反転していく。討幕派は新帝を擁して力を強め、将軍慶喜は大政奉還、慶応四年(1868年)正月には「鳥羽伏見の戦い」が起こり幕府軍は敗退する。遂に国を二分する「戊辰戦争」の戦火は東国へと移り、会津は西軍の最大の標的とされ、容保の恭順の意も受け入れることなく会津の地が最大の戦場となった。鶴ヶ城での一か月にわたる籠城戦の末に降伏、会津藩は本州最北の下北半島に斗南藩として移るという過酷な運命をたどることになる。容保は、その後謹慎生活の後に日光東照宮に宮司などを勤め失意と沈黙の日々をすごし五十八歳の生涯を閉じた。この場所の奥に見える山一体が松平家の墓所「会津松平家院内御廟」となっており容保もそこに眠っている。神道に則った巨大な墓碑が、うっそうとした森の中に点在しており荘厳な空気が漂っている。

武家屋敷内天満宮神社前の案内板

2月16日、容保は「嘆願書」

〇—容保、上は慶喜を輔翼(ほよく)して宸襟(しんきん)を安ずるあたわず、下は頑固疎暴(そぼう)の家臣共、制御不行届の所致(しょち)に御座候間、何卒、慶喜儀寛大の思召しをもって、お取扱いなしくだされたく懇願奉り候。容保儀は退隠のうえ、在所へ引き退き、恭順謹慎、お沙汰待ち奉(たてまつ)り候。

を謝罪状として朝廷へ差し出すように松平春嶽に託し、この日江戸を発って帰国の途についた。

松平容保嘆願書

会津戊辰戦争百話

〈孝明天応御宸翰〉

孝明天応御宸翰

〈鶴ヶ城歴代城主家紋〉

鶴ヶ城歴代城主家紋

鶴ヶ城歴代城主家紋

〈武備恭順へ〉

江戸在住の藩士、家族、鳥羽伏見の戦いに於ける負傷者らの帰国も開始された。二月二十八日(3月21日)会津藩は鳥羽伏見の戦いによる戦死者の「跡目相続」の手続きも始め、藩士の婦女子の帰国は二月十八日(3月11日)から始まっていたが、三月一日(3月24日)に負傷者の帰国開始、藩士は三月三日(3月26日)より始まり、早い者は三月十日前後に城下に到着し始めた。

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その間、若松城では「評議」も開かれ「武備恭順」へと定まっていった。

会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

 

松平容保胸像2004年撮影松平容保胸像2004年撮影

 

 

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