徳川慶喜恭順決定後の松平容保動向

〈会津藩士、江戸城中に於いてフランス式軍事訓練を受ける〉
松平容保は「評定」に於いて恭順と固まった慶喜を見るにつけ、会津藩の強化へと考えが傾いていったと思われる。 朝廷・西軍の矢継ぎ早の「追討」の報も入っていた。 京都守護職として五年間の京洛の期間に莫大な資金を使っていた。 最新の武器を調達するにも、その資金、藩兵の槍・刀にこだわる姿勢の転換、軍備強化は恭順するにも西軍の姿勢からは必要であった。 会津藩上屋敷近くには歩兵屯所もあり、広大な敷地がある城内で調練をさせた。
歩兵屯所跡
〈梗門〉
既に慶喜は「恭順」と決め、全権を勝海舟に委ねていた。鳥羽伏見で戦ったものにとって「大政の奉還」は朝廷にしたものであって、決して薩長に返上したのではない思いがあった。慶喜の弱腰に憤りが湧いた者も会津藩だけではなかったのである。しかし、情況は恭順へと流れがはっきりしてくる。
〈松平容保ら主戦論者「登城禁止」となる〉
「評定」の席上で慶喜の袴にすがって再度の戦いを願った主戦論者の幕臣・小栗上野介は、幕末当時、揺らぐ幕府の財政・軍備に多大な貢献をするも、その場で「罷免」を申しつけて慶喜は評定場を去ったという。
そして、二月十日(3月3日)幕府は主戦論者の幕閣を「登城禁止」とした。京洛時代、苦難の中無理に押し付けられた京都守護職を務め、将軍後見職であった慶喜を扶けてきた日々がむなしい思いとなってよみがえったであろう容保の心中は余りあるものであろう。徳川慶喜も十二日(3月5日)江戸城を出て上野寛永寺に入り謹慎生活に入るのである。
〈桔梗門〉
小栗日記
〈輪王宮へ哀訴状提出=孝明天皇の御宸翰写しと共に〉
二月十一日(3月4日)と二月十二日(3月5日)の動き。下記にあり。慶喜が恭順を決定した以上、もう後戻りはない。容保は上野寛永寺に居住する輪王寺宮に哀訴状を提出し、二十二の諸藩に孝明天皇の宸翰の写しをそえ、嘆願書を提出した。徳川慶喜は恭順の意を示すため、上野寛永寺・大慈院に十二日(3月5日)入る。主戦論者の幕閣も次第に謹慎を示すため屋敷を出る者多くなっていく。
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