勝海舟

江戸東京博物館勝海舟展会津戊辰戦争(弐-二)

幕末の江戸情勢

勝海舟

 

 

幕臣・勝海舟幕閣に登場する

幕末に欠かせない人物の一人であろう。会津戊辰戦争には直接かかわってこないのだが—。

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勝海舟は幕府御家人・勝小吉の子として生まれる。困窮な生活に耐えながら蘭学を学び、佐久間象山と親戚(妹婿が象山)である。筆頭老中阿部正弘がペリー来航の際、開国を要求された時、諸大名や幕臣にも、どう対応するか建言を求めた時、勝海舟も提出した。大部分が戦争も辞せず、鎖国続行だったが、海舟は海防強化策を書いた。具体的な内容であったという。三十歳の時であった。

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安政二年(1855年)一月、幕府の職務に初めて就く。番所番翻訳御用であった。やがて、長崎の海軍伝習所に赴任。旗本・諸藩の秀才約二百名と共に、オランダ人から汽船運用、造船などの訓練を受ける。三年四か月の後、江戸に帰る。

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日米修好通商条約批准の遣米使節の別行艦咸臨丸の館長として渡米、この時福沢諭吉も同行している。帰国すると井伊大老暗殺が起きていた。外国をみてきた海舟は日本の政情が我慢できなかったのか、それが災いし閑職へ回され、海軍からも追放される。

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文久二年(1862年)七月に海舟は再び登用され軍艦奉行並になる。元治元年(1864年)五月には並がとれ奉行となった。しかし、勝は神戸に設立した海軍操練所には、脱藩浪士ら尊攘派の者も入所させていたため、反幕と疑われ、帰府命を受け、奉行を罷免される。

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慶応二年(1866年)五月末、突然に呼び出され、再び軍艦奉行に再任され、風雲急を告げる中で長州藩再征の収拾などに当たったが、十月には江戸に帰ってきたのである。

2003年1月号歴史研究 日本史を動かした人物 勝海舟

2003年1月号歴史研究勝海舟

〈勝海舟生誕の地碑〉

説明文

勝海舟は、文政六年(1823年)一月三十日、本所亀沢町の父・小吉の実家である男谷(おだに)家に生まれ、七歳まで育ちました。幼名は麟太郎。幕臣とは言っても下級武士だったため苦しい生活を強いられた。少年時代は剣を黒田寅之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学や兵学を学んだ。その後、弘化三年(1846)に赤坂に転居するまでは、本所入江町(緑町四丁目二四番地)で暮らす。嘉永六年(1853)幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出た。万延元年(1860)には、日米修好通商条約批准のため、軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復した。慶応四年(1868)三月徳川幕府倒壊後の処遇を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見し、その結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦場から救ったことは有名。海舟は、成立間もない明治政府土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿、枢密顧問菅などを歴任し、伯爵となった。明治三二年(1899)一月十九日、七十七歳で病没したが、養子相続手続きの関係で秘され、二十一日に死亡が報じられたため、官報や大田区洗足池畔の墓石にも二十一日と刻まれている。

平成九年(1997年)三月

両国公園 2005年5月11日撮影

勝海舟生誕の地碑

〈勝海舟生誕之地〉〈法務大臣西郷吉之助書〉

〈裏面〉勝海舟先生は幼名を麟太郎と称し、文政六年一月晦日、この地男谷家邸内に生まれる。剣は島田寅之助に師事し、蘭学・海洋術を学び、安政七年咸臨丸館長として渡米す。明治元年三月十三日、高輪薩摩藩邸に於て西郷隆盛と会談、官軍の江戸進撃を中止させ江戸百万の庶民を戦禍から救い、東京都繁栄の基礎となり、明治三十二年一月十九日、赤坂氷川の自邸に於て没す。明治百年を記念しこの碑を建立、昭和四十三年(1968年)十二月吉日

 

勝海舟生誕の地

由来碑

上記の碑文と同様の内容のため省略する。

由来碑

〈勝海舟搖籃之地〉

勝小吉(海舟の父)一家は、麟太郎が八歳くらいの頃に、本所入江町近くの旗本・岡野孫一郎の屋敷の敷地内に住んだ。のちに麟太郎は岡野の養女・民子と結婚する。

勝海舟揺籃の地

〈妙見堂能勢別院〉

勝小吉が日頃信仰していたといわれている。子母澤寛の小説”親子鷹”(所持)には、犬にかまれて重傷を負った麟太郎を救うため、妙見堂に日参し祈る小吉の姿が描かれている。

〈山門〉

妙見能勢別院

〈妙見能勢別院・本堂〉

勝海舟が安政二年(1855年)正月、初めて幕府の職務に登用されたのは、幕府の番書翻訳御用(外国書の翻訳)といわれるが、蘭学(オランダ語)を猛勉強したのもあるが、阿部正弘筆頭老中がペリー来航後、門閥からでない人材登用を行った時、大久保一翁らの多彩な俊秀を抜擢した。その大久保一翁がペリー来航の開国要求に対する意見書を提出した勝海舟の意見書が注目された事を思い出し、推挙したとも伝わっている。

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また海舟は、当時、旗本なら誰もがなりたがっていた海防掛の徒目付(かちめつけ)を俗務として辞退し、推挙した者を困惑させたりしている。さらに海舟は大久保一翁に随行して、大阪や伊勢沿岸などの検分に行き、帰府すると小十人組入りして、父小吉以来の念願を果たしている。

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長崎・海軍伝習所に赴任した時、オランダ人から汽船運用、造船などの訓練を受けた時、教官(オランダ人)から”温和・怜悧・明朗・親切と評価されている。

妙見道能勢別院・本堂

〈弘福寺〉

海舟が十九歳の頃から四年間、この寺に剣術修行のかたわら禅の修行に励んだ。この弘福寺に参禅したという。

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文久二年(1862年)十月、開国派と評価されていた勝海舟の所へ、二十八歳の坂本龍馬が北辰一刀流千葉道場の千葉小天狗と称された子と共に訪れた。龍馬らは海舟を斬るつもりであった。しかし、海舟が世界の情勢とその対策を説くと龍馬らは一転して海舟の理解者となったという。

弘福寺

〈仙台藩士、勝海舟と面談〉

閏四月十二日(6月2日)、仙台藩士岩淵英喜は、仙台・米沢・会津藩の面談の結果、会津藩の謝罪内容を詰め、ようやくまとまり、奥羽諸藩も参加し会津藩謝罪・嘆願書、仙台・米沢両藩主連名の会津救解の嘆願書の写し携えて、旧幕府の全権代表となっていた勝海舟を訪れ、手渡した。また、これまでの西軍の奥羽鎮撫総督府および参謀・世良修蔵の行状、奥羽諸藩の戦争回避の動向を訴え大総督府への働きかけを依頼したものと思われる。しかし、西軍の奥羽進出、会津追討の姿勢は世良修蔵の処殺もあって変わらなかった。

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〈海舟邸長屋門〉

長屋門を裏から望む

勝海舟邸長屋門

〈勝海舟邸長屋門〉

会津藩士広沢安任(元公用人)は、勝海舟の紹介で、勝邸に滞在していた元薩摩藩士・益満休之助(御用盗の首領)を通じて、大総督府の西郷隆盛との面談が閏四月二十六日薩摩藩邸で行われる事になったが、西郷らは徳川慶喜を殺せなかった事から会津藩をその標的に定めていたため、逢う事なく終わった。

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広沢は、面談かなわず、逆に捕縛されることとなり、必死の会津藩救解は握り潰される結果となった。二十六日の夕刻、浜松藩屯所に拘束された。釈放されるのは会津戊辰戦争後のことである。一方、秘かに江戸に潜入していた会津藩士・小野権乃丞は、上野寛永寺の輪王寺宮の側近覚王院義観に接触し、輪王寺宮の会津若松への来訪を願い出た。五日に上野の戦いが勃発し、それが現実のものとなっていくのである。(会津戊辰戦争(六)(八)を参照)

勝海舟艇長屋門・三宝寺 2005年5月1日撮影

勝海舟艇長屋門・三宝寺

〈勝海舟邸跡〉

勝海舟邸跡

勝海舟邸跡

勝海舟邸跡の記

勝海舟邸跡の記

〈勝海舟邸跡〉〈勝海舟終焉の地〉

元治元年(1864年)五月、軍艦奉行となり、同時に御作事業奉行格諸太夫として官名勝安房守(あわのかみ)を名乗った。安房が諸国(日本)で最小の国なので承知したという。

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しかし、九月に幕閣に於いて神戸海軍操練所における勝は反幕派の浪士らも入所させていることから、その姿勢に危機感を抱いた重臣らは、突如、海舟を江戸に戻し罷免したのである。

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慶応二年(1866年)五月末、再び軍艦奉行に再任され、将軍家茂が大阪城で急死すると、長州再征伐の収拾交渉を命じられた。この再征伐は幕府軍は悉く各方面で敗れていたのである。海舟は安芸宮島へ単身赴き、戦いを止め、撤兵条件をまとめたのである。

〈公武合体派、奮闘する〉〈長州征伐へ〉

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この邸跡は明治五年(1872年)から明治三十二年(1899年)に亡くなるまで住まいとした。

勝海舟終焉の地

〈勝安芳邸跡=勝海舟終焉の地碑〉

江戸に戻った勝海舟は、鳥羽伏見の戦いが勃発するまで江戸にいたようである。この頃は幕府は日本最大の軍艦を擁する海軍力を保持していた。浜海軍所(現在の浜離宮庭園)に勤め、操練などを教えていたかも知れない。

勝安芳邸跡=勝海舟終焉の地碑

福祉センター・海舟の展示室

2010年6月27日撮影

福祉センター海舟の展示室

勝安芳銅像

勝安芳銅像

 

江戸東京博物館 勝海舟展

江戸東京博物館勝海舟展

江戸東京博物館勝海舟展

勝海舟没後90年 墓前祭

1989年1月19日朝日新聞から

勝海舟没後90年 墓前祭

 

帆船観光丸長崎へ

1988年4月15日朝日新聞より

帆船観光丸長崎へ

龍馬ほめる海舟の書

2004年10月16日朝日新聞夕刊より

龍馬ほめる海舟の書

〈江戸最大の危機を迎える〉

鳥羽伏見の戦いに敗れ逃げるように江戸城に入った徳川慶喜前将軍は、城内に於いて大評議を開くが、次第に恭順・謝罪の心が強まり、主戦論者を次々罷免、登城禁止にし、江戸引き揚げを臭わせ自らは上野寛永寺に謹慎した。

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謹慎生活に入る前に、徳川慶喜は一月十七日、勝海舟を軍艦奉行から海軍奉行並に任じ、さらに二十三日には若年寄・陸軍総裁を命じた。約二万と言われた幕府陸軍の諸隊を非戦の説得を命を狙われながら走り回った。また幕府の軍事顧問団の解雇をフランス公使ロッシュを訪ね、申し出た。これは西軍の顧問的イギリスを日本に引き止め、その利用を考えての事であった。

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一方、前将軍家茂夫人(和宮)が輪王寺宮に依頼し(追討中止の嘆願を)、また天璋院などにも依頼し、恭順・謝罪の嘆願もするが、西軍の慶喜追討、江戸侵攻は不変であった。これらの嘆願斡旋は、もはや全権者と勝海舟以外に交渉できる者はいなくなったのである。

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西軍の東海道鎮撫総督府(西軍大総督府)は駿府まで進軍した。勝海舟は幕臣・山岡鉄太郎を使者として、薩摩藩士益満休之助を随行させ、江戸を出立させた。西郷隆盛と山岡鉄太郎(鉄舟)との面談で、旧幕府の謝罪・慶喜の死は免れる予定となる。

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勝はさらに万が一の事も考え、イギリスに戦争回避の仲介、また江戸市中の市民救出のため、近海河川のあらゆる船を房総沿岸に新門辰五郎に依頼して待機させ、幕軍が敗れた場合は、江戸市中に放火し、進軍を阻止する作戦であったという。勿論、陸軍・海軍の総出陣態勢を整えていたのである。

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一方、西軍は東海道進軍は品川宿、中山道進軍らは板橋、新宿の宿場まで侵出してきた。三月十三日、海舟は高輪に布陣する西郷隆盛と面談するため出かけるのである。

 

無血開城の思いが回避させた江戸最大の危

〈勝海舟夫妻の墓〉

後年、海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のような歌を詠んでいる。

うゑをかば よしやひとこそ訪はども 秋はにしきを織りいたずらむ

富士を見ながら土に入りたいとの思いから、生前より別邸の背後の丘陵に墓所を造ったという。石塔の勝海舟の文字は徳川慶喜の筆と伝わる。当初は海舟一人の墓所であったが、後に妻たみも合祀された。

洗足池公園内 2005年5月1日撮影

勝海舟夫妻の墓

勝海舟夫妻の墓

勝海舟別邸跡(洗足軒)

勝海舟別邸跡(洗足軒)

留魂祠

洗足池畔公園

留魂祠

留魂祠の敷地内に建つ碑

留魂祠の敷地内に建つ碑

上 明治十六年(1883)十一月建立

下 大正二年(1914年)八月建立

留魂祠の敷地内に建つ碑

碑文

碑文

明治維新できれいに負けた男

武将列伝 勝海舟

 

山岡鉄舟と西郷隆盛会見、徳川慶喜謹慎の地宝台寺

武将列伝 勝海舟

 

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