長岡城奪還へ向けての各地の戦い②

今町付近戦闘要図会津戊辰戦争(参-二)

長岡城奪還へ向けての各地の戦い①

長岡城奪還へ向けての各地の戦い②

 

〈与板城攻防の同盟軍を援護する〉

五月二十八日(7月17日)寺泊に会津・庄内藩・水戸諸生党が与板の戦いで布陣する同盟軍の援護のため島崎へ出陣しているが(すでに詳細に前述しているので戦いは省く)出雲崎への出陣から帰陣したのはいつだろうか。二十四、二十五日の二日間の寺泊への艦砲射撃に反撃への援軍も出さなかったのである。それらの動勢から二十七日には評議して寺泊に帰陣したとしか考えられないのである。結義隊士二十余人はその帰陣をどんな思いで迎えたのだろう。

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一方、西軍は出雲崎へ進軍したのは斥侯らの報告を受け、同盟軍の守備陣が退去したことを知り直ちに先鋒陣を出陣させ二十八~二十九日には出雲崎に布陣してしまった。

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出雲崎まで西軍を進軍させた事は、同盟軍としては今後の戦いをますます苦しいものとなっていくのだが、寺泊に集結した水戸諸生党、会津結義隊、庄内藩、旧幕軍新遊撃隊。会津寄合組など総勢一千強の軍勢となったものと思われる。そんな情況での同盟軍の与板城攻防戦への応援であった。五月二十九日、六月二日(7月21日)同盟軍の主力隊が今町の戦いを展開中、与板の戦いに出陣し、西軍の侵略を阻止している。島崎に陣営する。西軍・海道軍も出雲崎まで侵略し山道軍への応援がしやすくなり、海道軍の一隊が関原に布陣中もあって同盟軍の攻撃に反撃態勢の包囲を狭くしようとの狙いがあった。

与板城攻防

〈大面村周辺の戦い〉

西軍にとっても見附は長岡に続く重要な拠点であった。三条、加茂へ進軍するためにも死守しなくてはならなかった。

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五月二十六日に撃破された小栗山を奪還し再び進軍しようと五月二十八日(7月18日)大面の手前の東山寺に浸出、一方指出方面、さらにその先の帯織方面にも進軍した。三ケ村への進軍であり、大面の同盟軍への攻撃を画策したのである。

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東山寺の裏山に胸壁を築き襲撃しようとする西軍を斥候隊が発見し同盟軍と激しい砲銃戦となった。帯織の戦いは同盟軍の山形藩は一小隊とはいえ勇戦する。指出の戦いは数時間の銃撃戦であった。八ッ時(午後二時)西軍は援軍が到着し、米沢・山形・会津の同盟軍はついに大面へ退くが進撃される。勇敢な歴戦の衝鋒隊が駈け付ける。立場が逆転し、さらに白兵戦となり西軍を敗走させた。この三ヵ村の戦いは衝鋒隊の奮戦が際立ったという。

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戦いは翌二十九日も早朝から西軍の進軍によって展開された。この日は帯織では苦戦、退き始めると、またも衝鋒隊、会津・永岡敬次朗の隊が駈け付け勝利する。小栗山は退いた西軍が布陣する。

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大面村の庄屋は西軍の教導役をしたとの事で会津・米沢藩に捕らえられ加茂の本営に送られたという。

大面村周辺の戦い

大面村周辺の戦い

〈会津藩、改めて越後口の編成を定める〉

会津藩は越後の政事と軍事方を五月二十六日頃に新たに定めた。家老一瀬要人が総督となっている。さらに五月中に武前規定十二ヵ条も定め、各藩境防備陣営に指示(達書)している。

会津藩越後口の編成

会津藩越後口の編成

〈赤坂峠の戦い〉

六月一日(7月20日)再び同盟軍は強堅な陣地に滞陣する西軍の赤坂峠を攻撃する。朝五ツ(午前8時)の事であった。西軍は松代藩が主体であった。激しい砲銃撃を加えた。しかし、増援が駈け付け押し気味であった戦いも今回も攻略できずに退いた。一方、堀溝に滞陣する西軍陣営に対して付近の民家に放火し宿陣を阻止しようとするが、反撃されて長沢に退いている。この一帯の戦いは西軍の反撃の前にいつも撤退となっている。

赤坂峠の戦い

赤坂峠の戦い

一方、大面方面の戦いも一進一退を繰り返していた。西軍も見附進出を阻止せんと必死の攻防戦であった。六月一日、会津藩朱雀二番寄合組隊長土屋総蔵は一小隊を率いて指出村に於いて西軍と砲戦を展開するが、隊士服部五郎助を戦死させ勝負つかぬまま退いた。

大面方面の戦い

五月二十五日(7月14日)同盟軍と赤坂村に先鋒的に守備陣営している西軍の戦いに応援として駆け付けた会津藩井深宅右衛門隊はその後も森村に滞陣していたが加茂の同盟軍の所に出張すべきと称し、長岡・衝鋒隊・村松藩らと熊袋に滞陣する西軍を攻略する。しかし、挟撃予定の長岡藩との間に手違いが生じ、また森村に帰陣する。井深隊は小出島の戦い(閏四月二十七日=6月17日)以来(叶津まで退いた)八十里方面の守備についていた。当然、越後口総督一瀬要人の許可あっての事であったと推察する。

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六月二日(7月21日)の同盟軍の今市攻略によって、赤坂・堀溝・見附方面に滞陣していた西軍はことごとく長岡へ撤退し、この方面の戦いは一旦終えることにする。

大面方面の戦い

〈今町の攻防戦へ〉

同盟軍は五月二十三日(7月12日)加茂にて軍議を開いた。各藩、各諸隊がすべて加茂に集結していたわけではないが、追々集結するであろう諸隊は各藩が出陣口を指示することにし見附口は直ちに出陣した。さらに与板口、栃尾口、弥彦口方面への出陣も日を追って出陣していく。但し戦局は動く、途中で変更したり、また各諸隊も分散したりしていく。

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五月二十五日(7月14日)会津藩、桑名藩の諸隊が加茂に着陣、すでに各方面口に出陣した諸隊を追う諸隊もあった。また会津藩朱雀隊のように滞陣(休息のため)する隊もあった。すでに見附方面では杉沢、赤坂峠の攻防戦が展開されていた。また海岸線でも西軍の軍艦が艦砲射撃も起きていた。この頃すでに奥羽越列藩同盟が成り重要拠点の新潟港を守備するため、同盟の軍事局が置かれ米沢藩色部久長らが定詰し各藩から出兵もあり守備陣営していた。

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長岡藩郡司総督河井継之助は見附口は長岡城への要衝の地であるため、五月二十七日(7月16日)加茂に着陣した会津藩佐川官兵衛らと面談し見附口の西軍の攻略などについて語り、すでに杉沢、大面、赤坂峠で戦闘が展開されているが、長岡城奪還をめざして出陣する旨を伝えその作戦を披露する。五月三十日(7月19日)河井継之助は軍事奉行(大隊長)山本帯刀ら七小隊と大砲二門を率いて加茂を出陣し三条に宿陣する。会津藩らは翌日の出陣とする。

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河井継之助の作戦は三方面からの進撃であった。
(1)主力隊は信濃川に沿って進み、途中から間道を進み今市の西軍本陣へ。
(2)牽制軍は本街道を進み主力部隊と思わせるため今町付近で扇形に散開しながら今町へ
(3)別動隊は大面方面から進み今町へ
であった。今町は長岡への本街道であり、三条から続いている。西軍は長岡城落城後同盟軍が主に加茂に集結しているのを知り、この今町を重要拠点として薩摩・長州藩の精鋭部隊を配置していたのである。

今町攻略は西軍に探知されてはならないと、一度に加茂を出陣しなかったようである。五月三十日に河井継之助らと共に出陣した会津藩は牽制軍として進軍する諸隊だけのようだ。六月一日(7月20日)会津藩・長岡藩らの牽制軍は三条を出陣し本街道を進み、福島村を通り山王村中心に付近の村々に宿陣する。

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さらに会津藩朱雀隊、砲兵隊と佐川官兵衛は衝鋒隊(古屋佐久左衛門の主力隊)は朝五ッ(午前8時)頃加茂を出陣し三条に九ッ時(正午)頃に入った。今町へは翌日出陣と予定していたが、長岡藩四小隊が訪れ共に出陣となり、直ちに出陣するがすでに夕刻時であった。この頃大雨の日が多く信濃川は氾濫し土堤沿いの道は埋没したりして大変であったという。そのため夜道は難儀で河井継之助らと合流できたのは六月二日の夜明け近かったという。

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一方、別動隊となった米沢藩(千坂太郎左衛門)は西軍が布陣する赤坂峠を避け、三条、長峰辺りから進み蔵内あたりに宿陣か、それとも二日の深夜に三条を出陣したものと思われる。

〈今町を同盟軍攻略する〉

六月二日(7月21日)本街道を進撃した長岡藩山本帯刀、会津藩は同盟軍の主力と見せかけるように今町近くになると扇のように散開の進撃形態をとり進んだ。西軍は主力部隊と誤認した。多数の兵力をその方面に出撃させた。

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同盟軍の主力隊は会津藩砲兵隊の一部を鬼木新田に防備陣として残し、長岡藩、衝鋒隊は中之島口をめざし、会津朱雀隊、佐川官兵衛、砲兵隊は今町の背後方面から進み、手薄となった西軍本陣めがけ激しい攻撃をかけた。会津藩主力は刈岩田川沿いから進撃した。

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同盟軍の主力隊と思わせた牽制軍はまんまと西軍の主力隊を今町よりおびき出す事に成功した。帯織村から指出村にかけて散開しながら猛撃をかけた。西軍主力部隊はまさか他の諸隊が今町を攻撃するとは知らず猛反撃を展開した。

今町付近戦闘要図

(資料=北越戊辰戦争資料集)北越戊辰戦争資料集

一方、同盟軍別動隊は牽制隊が西軍の主力隊と激しい砲銃戦展開中、指出村から迂回路をとり今町へ進撃した。西軍の本陣から一隊が反撃する。こちらも激しい戦いとなった。

今町付近戦闘要図

今町付近戦闘要図

〈西軍の本陣跡=永閑寺〉

永閑寺

卓越した長岡藩軍事総督河井継之助の作戦が当たった。西軍の主力が囮となった牽制隊と激しい戦いを展開中に二手に分かれて今町を攻撃した同盟軍主力隊は手薄になったとはいえ必死に防戦する西軍本陣隊を攻めた。激しい銃弾が飛来する中、会津・長岡藩の槍隊が斬り込みを決行、河井自らも白刃を振って突入したという。勇敢なる衝鋒隊も突撃する。戦傷者が出てもなお前進、刈岩田川の堤防に胸壁を築き反撃する西軍の一隊も衝鋒隊に攻略される。

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一方、西軍の主力隊も今町が攻撃されたと知るや、じりじりと後退し今町へ戻るも同盟軍の激しい三方面からの攻撃についに敗走となった。

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この戦いで中之島、今町合わせて千軒有余の家々が焼失したという。(千軒とは少し多いと思われるが)西軍が放火して退却する。

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大勝利した同盟軍は長岡・会津両藩の砲兵隊を半分ずつ残し番兵とし、坂井、丸山、鬼木新田に退き宿陣、衝鋒隊は三条に帰陣した。

〈同盟軍、見附に移陣し本営を設営する〉

今町攻略に大勝利した同盟軍の長岡藩河井継之助、会津藩佐川官兵衛らは、一部の守備陣を残し六月三日(7月22日)三条に帰陣する。見附方面の西軍が殆ど撤退している事を知り、見附に転陣し同盟軍の本営を設営する。

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一方、今町守備として残留していた会津藩朱雀隊、砲兵隊は長岡藩士と共に三林村に退き宿陣、鬼木田新田の砲兵隊も合流する。(六月三日=7月22日)さらに四日には再び中之島に焼け残った民家があり移って滞陣する。

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数日後には見附に本営を置く同盟軍は再び出陣し大里に於いて約一ヵ月に及び攻防戦を展開していく事になる。しかし、会津藩越後口総督一瀬要人、米沢藩軍事総督千坂太郎左衛門らは三条に留まっていた。それぞれ藩の思惑があったものと思われ、河井らに同盟の主導権を奪われる事を懸念していたのだろうか。

六月三日(7月22日)与板に布陣する西軍は同盟軍(会津・桑名・米沢藩)与板周辺の守備陣に攻撃する。同盟軍・会津萱野右兵衛は海岸沿線の同盟軍に援軍の要請を出した。島崎に宿陣した昨日の隊も、さらに寺泊に滞陣の会津結義隊も出陣し、西軍を挟撃する。まさかの背後からの攻撃に西軍も慌てた。小高い丘陵からの砲撃も効果的であった。西軍は惨敗逃走した。

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会津藩萱野右兵衛はこの戦い後、一部の守備陣を島崎の東方北野に残し、自らは与板街道の岩方(金ヶ崎)へ転陣し守備する。四日に出立し五日から滞陣となった。

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この後与板城攻防戦も西軍・海道軍の進軍も膠着状態となる。寺泊に滞陣する同盟軍も島崎に一隊の守備陣を配置し、寺泊に守備陣営する。

ここで一旦この方面を休んで新潟方面の動勢を少し追っていく。

長岡城奪還へ向けての各地の戦い③狩谷川の攻防、久田の戦い

 

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