〈混迷の幕末〉
元治元年「池田屋騒動」「禁門の変=蛤御門の変」「第一次長州征伐」
慶応元年、長州の「高杉晋作の挙兵」「第二次長州征伐」
慶応二年「薩長同盟」「寺田屋事変」「将軍家茂死去」「坂本龍馬暗殺」「孝明天皇崩御」とつづき
慶応三年「大政の奉還」「王政の復古」と幕府の権威もついに失なった。
この間、松平容保は「孝明天皇」に誠忠を尽くし、京の治安に務めていたが、大きく変わる政情にはどうすることもできなかった。
このような情勢の中で慶応三年(1867年)十二月十一日(1868年1月5日)会津藩と薩摩藩の間で守護職屋敷付近で「殺傷事件」が起きた。鬼の佐川と呼ばれた官兵衛の末弟、佐川又四郎、常盤恒次郎らが警備の巡邏中、薩摩藩士村田新八、山野田一輔、川村景明らが屋敷を覗いて様子を伺っているのをみつけ斬り合いとなった。佐川は討死、村田は重傷を負った。
このような状況では、いつまた戦いが起こるかと、当日二条城にいた松平容保、徳川慶喜らは無用の衝突は避けようと、十二日(1月6日)桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静を伴って藩士も大阪城へと向かう。
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慶応四年の「鳥羽伏見の戦い」は目前に迫ったが、上記した情勢を「史跡めぐり」で追いかけてみる。
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「蛤御門の戦い」で長州藩は「三家老」の首を差し出し、藩の存立は保ったが藩主親子の官位は取り上げられた。長州藩はそれまで「正義派」が牛耳っていたが「俗論派」が藩政を行う事になり「征長」は取り止めとなったが、次第に再び「正義派」が盛り返し始め、大量の兵器を外国から密輸入し、再び京都への進出を企て、高杉晋作が結起し、ついに長州藩は武力で正義派の政権を奪取した。
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そんな動きに幕府は「長州再征」を布達した。徳川家茂将軍は慶応元年(1865年)五月十六日、老中、若年寄、旗本、諸藩兵を従えて江戸城を出陣するが、一ヵ月以上もかかって閏五月二十日「京洛、二条城」に着陣した。
政権奉還の議起こる
〈二条城・二の丸御殿と本丸庭園〉
徳川家茂将軍は御所に参内して「長州再征」の「勅許」を願い出るが、朝廷は案に相違して拒否してきたのである。徳川将軍はいったん「大阪城」へ退いた。
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この頃英仏蘭米の諸外国は九隻の艦隊が「兵庫沖」に現われ、威嚇するように「安政」に結んだ条約の「勅許」、兵庫港の早期開港等々を迫ってきたのである。「長州再征」の前に難問があった。「交渉」は翌年の五月まで続いたのである。
〈「長州再征」は敗戦が続く〉
慶応元年九月二十一日、幕府は「長州再征」の「勅許」を得たが、長州藩との「交渉」は長州藩の強腰とで長引いた。
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一方幕府は「外交問題」に手こずっていたが、慶応二年(1866年)五月に結着した。直ちに長州藩に「降伏条件」をのまなければ、六月五日をもって「攻撃」する旨通告した。幕府側の征長軍も実際には諸藩の足並みが揃わなかった。しかし、六月八日、幕府は全軍に出撃命令を下すが、長州藩境の戦いは戦意が乏しい征長軍は最新式銃砲撃の前に事如く敗れていた。
征長戦は幕府側にとって苦戦の連続であった。(詳細は所有する「幕末維新大戦争」を参照)
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長州藩四境の戦いに敗戦を続ける幕府にとって「大阪城」で吉報を待つ徳川家茂将軍は「病没」する。七月二十日であった。老中(前福井藩主)松平慶永は長州との「止戦交渉」を進言する。将軍後見職一橋慶喜はそれを振り切って自ら出馬するつもりであったという。しかし、そこへ老中小笠原長行が「小倉口」の戦いに破れ、帰阪し登城してきた。慶喜は止むなく出馬をあきらめた。
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八月十六日、慶喜は御所に参内して「征長解兵」の「勅許」を奉請した。二十日に将軍家茂の「喪」を発し、一橋慶喜が十五代将軍に就任する。二十一日に朝廷から「休戦沙汰書」の勅許が下り、九月二十日、芸州藩を通して長州藩に手渡された。
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幕府と長州の交渉は厳島神社(大願寺)で幕府・軍艦奉行勝海舟、長州広沢兵助らであった。長州は幕府から引き揚げるなら追撃はしないが、長州から「止戦」を申し出るいわれはないと、結局将軍病没によってうやむやに終わってしまった。
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この戦いは長州藩が開戦前(慶応二年一月に「薩長同盟」の密約を結び軍事力の強化を進めた結果の強気であった。一方薩軍は「征長出兵」を拒絶していたのである。
元離宮二条城
徳川慶喜は将軍に就いたものの、幕府の失権を肌で知っていた。在京する多くの諸藩の対応「公武合体」推進に理解のあった孝明天皇の逝去等々から次第に混迷する京洛の政局にすでに「しがみつく」程の魅力を持っていなかった。
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そのような情況の中「公武合体」推進論の土佐藩から、坂本龍馬が考えたという「船中八策」を家老の後藤象二郎が若干手直し、藩主山内容堂に「建策」した。山内容堂は幕府老中板倉勝静に「建白書」として、それを十月三日に提出したのである。
1969年11月14日(上)
2002年8月6日(下)
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「長州再征」が十四代将軍の死によって「止戦」となった。しかし「幕府の衰退と信頼の喪失」は誰の目にも明らかであった。しかし、十五代将軍に就いた徳川慶喜は戦いの結果を踏まえ、フランス公使ロッシュの援助に一層密着し、幕府の「軍事改革」に意を注いだ。軍艦も購入し「開陽丸」の発注もする
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一方「薩長同盟」を結んだ薩長は、長州藩の表舞台への復権を着々と狙い進める。
大政奉還
〈二条城・唐門と二の丸御殿〉
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「二条城」の「葵紋」は「鳥羽伏見の戦い」で勝利した薩長は(薩摩藩西郷隆盛)直ちに葵紋のすべて「菊の紋」に取り替えさせたという。
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慶応二年十二月五日(12月30日)徳川慶喜は「朝廷」より「内大臣・征夷代将軍」に任じられた。それに先立って慶喜は弟の喜徳を松平容保の養子にしている。
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慶喜が十五代将軍に就任してから二十日後の十二月十五日(1868年1月9日)突然、「孝明天皇」が崩御されてしまった。京都守護職に就任以来、絶大な信頼を寄せていたが天皇の死去は容保にとって何事にも変えがたい大きな「心柱」を失った事になる。
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