〈公武合体派、奮闘する〉〈長州征伐へ〉
公武合体派、奮闘する
「蛤御門の戦い」後、朝廷から七月二十三日(8月24日)「御所への発砲」に対して長州藩の「征長」が決せられ翌二十四日、西国二十一藩に出陣の準備命が下った。
しかし、長州藩は戦いの責任者として益田右衛門、福原越後、国司信濃の三家老の首と恭順謝罪の書をもって、十二月二十七日一発の発砲もなく、諸藩の解兵令が出された。
元治二年(1865年)二月「慶応」と年号を改元する。比較的、京洛の国は穏やかにすぎていったいった。しかし。江戸には「水戸天狗党」の挙兵が起こり、更に長州藩には「高杉晋作」が討幕の挙兵をする。慶応二年(1866年)の事であった。
公武合体派奮闘す 資料
〈長州征伐へ〉
幕府は倒幕に決した長州藩が軍制改革、武備恭順の動向を「容易ならざる企て」として「長州再征」を決定し、将軍家茂の上洛となった。慶応二年(1866年)閏五月十六日(7月8日)江戸を進発、閏五月二十一日(7月13日)近江・膳所藩主本多膳正康穣の居城に宿泊する予定であった。
将軍上洛を知った守護職松平容保は藩兵、新選組に出動させ主謀格の膳所藩士・河瀬太宰を捕えた。この頃、長州藩の討幕の動きに合わせ尊攘派浪士がまた大阪・京都・西国に現われ始めていたのである。
「三条城」に入った将軍家茂は六月七日(7月18日)諸藩に対し「長州征伐」の命を出したが、戦いは幕府側にとって不利な戦況であった。そんな中、七月二十日(8月30日)大阪城で将軍家茂が急死する。一ヵ月後の八月二十一日に喪が発せられ、九月四日長州征伐の中止、解兵が発布された。
14代将軍徳川家茂の死因とは?
これより以前正月二十一日(3月7日)には「薩長同盟」が秘かに締結されていたのである。そのため「再征長」には薩摩藩は出兵を拒否していた。このような情勢から尊攘浪士も尊王倒幕へ変貌していった。土佐藩からも脱藩者が増え、浪士となって倒幕志士へとなっていく。
幕府は十五代将軍に「将軍後見職」の一橋慶喜を十五代将軍に立て、軍制改革を進め、新選組を幕臣に取り立てるなど巻き返しを図るが、薩長同盟を中心とする討幕派の動きは止めようがなく「武力倒幕」の密計も進められていた。
そして松平容保守護職、最大の信頼者であった「孝明天皇」が十二月二十五日(1月30日)突然亡くなった。討幕派公卿岩倉の暗殺とも一説にはある。
孝明天皇暗殺説は本当?
薩長同盟成立切り抜き
幕末研究会資料
坂本龍馬は刀の目利き
異説あり薩長同盟 切り抜き
〈長州再征へ〉
朝廷に「弓を引いた」長州藩に孝明天皇は「征倒」の勅諚を幕府に出した。「蛤御門の変」の責任を明確に天皇は示したのである。
一方、長州藩は急激な改革を推し進めてきた「正義派」が蛤御門の戦い以降、その失政を責められ、幕府に対し恭順謝罪を唱える「俗論」が台頭し、九月二十五日夜藩主の前で評議が行われ、恭順が勢いを増し「正義派」の首領であった家老周布政之助が自決し「正義派」は城下から逃げ出す。「蛤御門」に出陣した三家老の首をさし出し幕府・朝廷に恭順を示した。元治二年(1865年)一月の事であった。この藩の動き萩を去っていた「高杉晋作」は再び「正義派」が政権を握り、倒幕せんと下関馬関で挙兵する。一方幕府は一月十五日、長州藩の恭順に征倒を中止した。しかし、この年四月に「慶応」と改元され「公武合体」が更に強化されようとしていたが、高杉晋作らの挙兵により長州藩は再び幕府討伐に一変し、再び幕府は天皇より勅諚を受け「第二次征長」の出陣となった。慶応元年(1865年)九月二十一日であった。
〈薩長同盟〉
しかし、「再征」に反対する薩摩藩は、慶応二年(1866年)一月二十一日、既に「薩長同盟」を結び秘かに「討幕」を考えていたのである。
前回の「征長」より諸藩にも中々出陣せず、徒に時が過ぎていくのだが、漸く六月七日になって長州藩境に出陣し開戦となるが、幕府方は四方面(岩国、津和野、大島、小倉)から攻めるがことごとく敗北を期すのである。
そんな中で大阪城に将軍徳川家茂が七月二十日に死去してしまう。幕府は「征長」が敗北つづく中、八月二十日将軍の喪を公表し「征長」停止の勅命を天皇より受け、十月に幕府軍は長州藩境から撤退を完了した。
十二月五日、将軍後見職一橋慶喜が朝廷より「征夷大将軍」「内大臣」に任じられ、徳川慶喜十五代将軍が誕生する。慶喜はこれより先立って実弟の「喜徳」を会津藩主松平容保の「養子」としている。慶喜は頼るのは孝明天皇の信任の厚い容保だけという思惑があったのかもしれない。
絵堂、大田の戦い
〈孝明天皇崩御〉
徳川慶喜が将軍に就任して二十日後の十二月二十五日突然「孝明天皇」が三十六歳の若さで崩御されてしまったのである。松平容保は京都に於ける「心の拠り所」が失われて、会津藩にとっても大きな痛手であり、にわかに暗雲が垂れこめていった。
慶応三年(1867年)一月九日、十五歳の「睦仁親王」が「践祚」され、天皇に就いたのである。この日から朝廷内では「討幕」派の暗躍が激しくなっていく。それまで蟄居されたいた「岩倉具視」が朝廷を牛耳るようになり、薩摩藩も天皇の外祖父「中山忠能」を抱き込み、秘かに「討幕の密勅」を手に入れる(十月十四日)。まだ、十五歳の天皇が政情にそれ程の判断力がないのである。明らかに薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、公家の岩倉具視らの謀略、陰謀であった。「偽勅」であった。
「討幕」の武力行使寸前の情勢であった。そんな中で十五代将軍慶喜は「大政奉還」の決断へとなっていく。
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