〈皇女「和宮」の降嫁〉

会津戊辰戦争(壱-一)
〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉〈江戸「本行寺」〉

〈皇女「和宮」の降嫁〉

安藤信正が行った幕政安定のために行った施策の中で、最も大きな政治対策は「公武合体(一和)」をめざした事である。皇妹(こうまい=天皇の妹)「和宮」を「御台所」(将軍の正室)に迎える事を決した事である。安藤は朝廷の権威をかりて幕府の権力を強固にしようとしたのである。が、「孝明天皇」は反対するが、幕府の猛運動についに実現する。

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しかし、朝廷からの「降嫁」の条件として「攘夷」の実行を約束させられたのである。また、「新潟港」「横浜港」の開港の中止、江戸・大阪の市場を諸外国の進出延期などを言い渡されている。幕府はイギリス公使オールコックにそれらの件を認めさせた。これまでの「外国交渉」の経験で本格的な攘夷など不可能なことをよく知っていたのである。現実には諸施策には諸外国の技術、兵器等々を輸入していた。「対外協調」を進めていたのである。

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しかし、「和宮」の「降嫁」は「政略結婚」である事が誰れの目にも明らかであり、急激に「尊王攘夷」「勤王志士」が生まれ始めていたこの時期、「尊攘派志士」を憤激させる事になった。次第に「風雲」急を告げる政情・世情へとなっていった。

 

皇女和宮

〈徳川将軍家墓所〉〈芝・増上寺〉

「和宮」は文久元年(1861年)十一月十五日、江戸城清水門内の清水邸に入り翌二年二月十一日、盛大な婚儀が行われた。

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慶応四年(1868年)一月「戊辰戦争」勃発し、徳川慶喜は敗れ、夜、秘かに「大阪城」を脱け、江戸城に入った。「恭順・謹慎」する慶喜は「和宮」「天璋院」に朝廷への謝罪の周旋をする。

皇女和宮
皇女和宮
皇女和宮

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