〈黒谷・金戒光明寺=会津藩本陣跡〉

〈黒谷・金戒光明寺の山門〉(下)〈明治初期の三条大橋〉(上)
(石黒コレクション保存会蔵)
〈会津藩本陣=黒谷・金戒光明寺〉
黒谷金戒光明寺全図
〈西門(上)と正門(中・下)〉
黒谷金戒 光明寺は「城」構えの様相をなしている。大軍が一度に攻め入ってこられないよう南には小さな門しかなく、西側には城門のような高麗門の山門があり、小高い丘陵になっている黒谷は自然の要塞になっている。
先発として入洛していた公用人たちによって十分に下見した結果、本陣と決定したという。
更に御所まで半里(2キロ)、三条大橋(京への入り口)まで1.5キロ、馬で5分、急ぎ足で人でも15分でいける要衝の地であった本陣である。
(上)2004年4月17日撮影
(中・下)1969年3月21~24日撮影
〈本堂〉
約四万坪の寺域には大小五十二の宿坊があり会津藩士一千名が駐屯できるものであった。
「大方丈」及び宿坊二十五ヶ寺に藩士は寄宿したという記録が残されているという。
(因みに前項の絵図に知っているものは記してある)
-◇-
文久三年(1863年)一月七日、会津藩は攘夷々々と吹きふさぶ京の世情、浪士の動向、それより朝廷との公武合体の推進など、知らぬ土地での情報を探知し、機微的な活動が要されることから、藩政の中に「公用方」を作り、その任に当たらせた。同行した藩士の中から有能者を当て、朝廷と幕府の媒介を果たす役割を担うことになった。それらの士との接触も持った。一橋・会津・桑名藩が朝廷をも含め、京における政事をリードしていく中で、公用方は事実上の重要な機関として機能していくのである。
〈山門(上)と本堂(下)〉
松平容保が京都守護職として入洛する前から、京は御所の諸問を守衛する長州、土佐藩の西国諸藩は、孝明天皇の「異人嫌い」に便乗し「攘夷」を振りかざし、また脱藩藩士らも公卿(過激派)を扇動し、市中の豪商に「献金」と称し、金銀強奪や、また「天誅」と称し、幕府側につく者の暗殺等々が日々繰り展げられていた。これら浪士が京の町を不安に陥入れていた。
「攘夷」対策に将軍の上洛が決まった。徳川家光(三代)以来の出来事であった。その警護として、江戸で募った「浪士隊」が京洛に入ってきたのが、文久三年(1863年)二月二十三日(4月10日)であった。しかし、この「浪士隊」も清河八郎の画策により、攘夷の魁となる勅使を朝廷から下り、幕府は急きょ江戸へ引き戻すことになったが、本来の将軍警護として残留した近藤勇らは三月十日(4月27日)この会津本陣へ出向いて、将軍警護の「趣意書」を提出した。三月十五日(5月2日)近藤勇らは会津本陣に再び訪れ、「会津藩預り浪士組」として認められた。この浪士組が後に「新撰組」へとなっていく。その浪士組の市中取締りも功をはくし、次第に京洛は治安が安定となっていくのである。
〈京の町並み〉
※光明寺の鐘楼から市街を望む
会津藩士一千名が駐屯できる程の金戒光明寺である。御所まで約二キロ、三条大橋まで焼く1.5キロと京の要所にも近い。松平容保はこの本陣に寄宿することが多かったという。
〈唐門・大方丈(上)(中)と松掛鎧(下)〉
松平容保が居住したと伝わる
〈庫裏〉
前掲の「黒谷金戒光明寺全図」の西門の右側にある上雲院は家老田中土佐の宿所。鐘楼近くの光徳院、山門近くの金光院に横山主悦、唐門大方丈に藩主松平容保らが宿所としていたという。
金戒光明寺は約四万坪の広大な敷地で城構えに出来ている。「高麗門」以外は、小さな門で一度に多勢の軍勢が押し寄せても簡単に踏み込んでこられないようになっていた。
-◇-
守護職就任以来、長州藩を中心とした過激な浪士対策「攘夷」の実行を幕府に迫る公卿らに日夜活躍する容保であった。その「誠心」には孝明天皇も次第にに信頼を寄せてきていた。
〈鐘楼〉
「京都守護職」は大阪城代、京都所司代、並びに京都、大阪、奈良、伏見の各奉行所を統括、畿内の治安維持に務め、非常時には軍事指揮権を有する権限を持っていた。従って、京市中の治安は朝廷もあり、重要な一つであった。
〈南門〉
文久三年(1863年)正月二日守護職・松平容保は初めて参内する。
〈小御所〉
「小御所」に於いて「孝明天皇」に拝謁した。天皇より「天杯」と「緋の御衣」を下賜され、容保は「太刀」「馬代」「ロウソク」を献上した。
天皇は容保の江戸に於ける「朝廷」への幕府の援助を改革した功績を知っており、その忠誠と誠意・努力に対して下賜したという。「緋の衣」は戦祖(せんぽう=戦士の時の陣羽織)に作り直すがよいとの言葉まで伝えられたという。これらは容保をはじめ、会津藩士にとっても感涙する程のものであったと伝えられている。
-◇-
慶応三年(1867年)十二月九日「王政復古の大号令」が発せられ、その日小御所に於いて初の新政府の閣議が開かれ、徳川慶喜の「官位剥奪」と「領地返上」が決められた。「戊辰戦争」への序幕となった出来事である。〈朝廷に於いて「会議」〉
孝明天皇の治世嘉永二年(1849年)四月七日学習所(修学所)から「学習院」に改められた。教育の場として設けた学習院は文久に入ると尊攘を唱える志士のアジトとなり、それらの浪士らに悩まされていたという。尊攘派浪士といっても殆んど脱藩者で「天誅」と称すテロ行為を繰り展げ、過激公卿と結び暗躍していたのである。

コメント